「このビルなの? なんかこのくたびれた感じが確かにそれっぽいけど」
「そそ、ここの三階が問題の場所。それにしてもなんかこう、ドキドキしてこない? ここでふたりの運命が変わるかもしれないって思うとさ」
深刻そうな内容の台詞とは裏腹な軽い調子に私はあきれ返ってしまう。まったく大胆なんだか無神経なんだか。
「そういう不謹慎なことを言うな。万一見つかったら大変なことになるんだからねっ」
「だいじょぶだいじょぶ。いざ行かん、我らの勝利のためにー」
「いったい誰が何と戦うんだよ……」
さっさとビルの出入口に姿を消してしまったあいつを見失わないように、しかたなく私もスピードを速めて後を追う。
「ふたりの運命、私たちの可能性、か」
決して信頼してないわけではないけど、なんせふたりとも素直じゃないから。ま、だからこうして様子を見に来たりしてるわけだし。
などと必死に言い訳している自分に気づいてしまい、思わず吹き出しそうになる。
やれやれ、素直じゃないのは私も同じか──
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『コーヒーブレイク/キャラメル・ラテ』
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なすすべもなく、ただ私はその場に立ちすくんでいる。
切れかかった蛍光灯が硬質な音を立て、せわしなく明滅を繰り返していた。くすんだコンクリートの壁のそこかしこには無数の細かなヒビが浮き上がっている。毒々しいペンキを塗りたくって精一杯化粧をほどこしているが、残念ながらそれを隠し通す試みは無残な失敗に終わっていた。
本当に、ここは何もかもが狭く澱んでいて息が詰まりそう。たとえばここまで登ってきた細い急傾斜の階段。大人がすれ違うのも難しそうだ。
開け放たれた階段の踊り場の窓から、生暖かく湿った空気とともに外の喧騒が流れ込んでくる。それにはわずかにすえた臭いが混ざっていて、ここが繁華街であることをいやでも思い起こされてしまう。呼吸を続けていると鼻やのど、いや肺のすみずみまで腐ってしまいそうだ。
もしかすると旧約聖書に載っている、神の怒りに触れ滅ぼされたという街ソドムも、こんな感じだったのだろうか。
そういえば、英語のソドミィというのは同性愛者という意味もあるのよね。
こなたがバイトしているメイド喫茶の出入口は私の目の前にある。このドア一枚を隔てた向こう側に存在するのは一部の人々にとっての天国。ほんの少しドアノブをひねるだけで簡単に入り込めるはず。だけど、私にとっては決して崩れることのないジェリコの壁のように感じられてしまう。
だから。
なすすべもなく、ただ私はその場に立ちすくんでいる。
◇
ポケットで何かが間欠的に振動するのを感じる。ケータイにどこからかメールが着信したらしい。取り出して差出人を見ると、どうやら最近入会した新しいネトゲのサイトからのようだった。とりあえず急ぎの用件でないことだけ確認して、再びポケットにしまい込む。
ネットでいろんなサイトをめぐっていると、たまにネトゲの広告が表示されていることがある。今まであまりそういうのには関心がなかったのだけど、私が好きなラノベ作家がかかわっているということで、とうとうネトゲにも手を出してしまった。なんだか、いろいろな意味でこなたに影響されているようで、あまりおもしろくないのだけど。
最初のうちは無料でプレイできるというのも魅力だった。だけど、世の中そんなに甘くない。無料で用意できるアイテムなんてたかが知れている。すぐに行き詰まってしまい、有料アイテムを購入するか、さもなければ他の人たちと交渉で譲ってもらうかしなければならなくなる。
懐のさびしい私ではアイテムの購入はためらわれた。かといって女キャラで見知らぬ他人とやりとりするのは、やっぱり問題があったりする。少し仲良くなると、こちらのスペックとかメルアドを聞き出そうと躍起になる莫迦が時たまあらわれるからだ。
いったい何を勘違いしてるのか。もし私がネカマだったりしたらどうするつもりなんだろう。まあ、それはそれで面白いかもしれないけど。いやもちろん、自分が当事者でなければの話よ。
そういえば、こなたなんかあっちの世界ではかなりうまく立ち回ってるらしい。オトコキャラのシーフで軽くレベル六〇超えてるし。でも世の中は広い。上には上がいる。
こなたがどこからか聞いてきた話によると、我が国にはレベル七五のキャラを五つも育てているという、とんでもない若い女性廃プレイヤーが実在するらしい。なんでもオフの時間全てをネトゲに費やしているのだとか。確かにそのくらい入れ込まないとレベル七五なんてとても無理。ましてそんなキャラを五つもだなんて、どんだけネトゲ好きなんだよっ、とツッコみたくなる。
ようやくレベル六かそこらをうろちょろしてる私から見れば神さま、いや女神さまみたいな存在だ。もっとも……リアルではあまりお近づきになりたくないかなぁ。やっぱり私は血の通った人間のほうが性に合っているみたいだし。
でももし実在するのなら、いったいどんな人なんだろう。ちょっとだけ興味ある、かも。
それにしても、さっきからなんだかヘンな気分。どうして自分で自分を責めているかのような感覚を覚えてしまうのか。うーん、わからん。
そんなどうでもいいことを考えていると、絶対障壁のようなドアがいきなりきしんだ音を立てて開いた。別に私が開錠の呪文をとなえたわけじゃない。喫茶店から誰かが外出しようとしていたのだ。
「いってらっしゃいませ、ご主人さま」
そんな女性店員の声に送られ、ふたりの男が中から姿をあらわした。どちらも度の強そうなメガネをかけ、どデカいバックパックをだらしなく肩に引っかけている。お世辞にもファッショナブルとは冴えない風体だ。
男たちは私という想定外の存在に戸惑ったようだった。ぎょっとしたように目が見開かれ、一瞬遅れてわずかに好奇の色が宿るのがわかる。
その4つの目が、靴の先からひざ、太もも、腰、腹、胸、首と、まるで舐め回すように私の身体を捉えていく。
何よ、こいつら。
本能的な嫌悪感を押し隠しながら、私は男たちをにらみ返した。こちらから目をそらすのは、なんだか負けを認めるようでイヤだった。
はたして男たちは急に落ち着かなくなり、慌てて視線をはずしてそそくさとエレベーターの前に向かって歩き出す。そのあとには顔を背けたくなるような犬の臭いだけが残った。
ドア越しに店の内部の様子を伺おうとすると、今度はショートボブの女性店員と目が合った。眼鏡の奥で何ひとつ感情を読み取れない、ガラス球のような瞳が私のことを凝視している。まるで日本人形を連想させるかのような、こじんまりと整った顔立ちだった。空色を基調とした県立北高のセーラー服に、濃紺のカーディガンを重ね着している。
一見して、いかにもおとなしそうな文学少女風味。文芸部と書かれた部室棟の一室で、パイプ椅子に座り込んで分厚いハードカバーを読み耽っていれば、さぞかし絵になることだろう。もし長門有希が──『涼宮ハルヒの憂鬱』に登場する、あの対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェースが実在していたとしたら、ちょうどこんな感じかもね。
「何?」
ちょっぴりハスキーな小声で、彼女が最小限の質問をぶつけてくる。どうしよう、彼女に呼び出してもらおうか。私がどう話を切り出そうかと悩んでいると、意外なことに向こうの方から話しかけてきた。
「涼宮ハルヒの関係者?」
ハルヒ? ああ、こなたのことか。
「う……ん。まあ、そんなとこ」
私がそう答えると、長門有希は注意深く観察していないと見逃してしまうほどの小さなうなずきで「了解」と返してくれた。
「いま呼んでくる」
それだけ言い残すと、彼女は再びふらふらと店の中に引き返していった。
それにしても、イヤな視線だった。先ほどの男たちのそれを思い出す。まるで異物を見るような、まるで虫でも見るような彼らの目つきを。もし私とこなたとが友人の関係を踏み超えたら、否応なしにそのような視線に晒されることになるのだろう。
私はまだいい。それが自らの決意で選んだことなのだから。だが、こなたはどうだろうか。それでなくても、あいつはマイノリティだ。チビだし、オタクだし、さらにその上……。
いや、あいつは耐えるだろう。それどころか、ひょっとしたら意にすら返さないかもしれない。
だけど、果たして私が耐えられるだろうか。ほかならぬ私のワガママで、あいつが好奇の視線にさらされる事態に陥ることに。
『ある時は、白い目を向ける人々から娘を護る盾となった』
桜庭先生の声が脳裏に響く。
そんなマネ、とても無理だ。
私は天原先生みたいに強くない。
私はあの少女みたいに聡明じゃない。
私はみゆきみたいに完璧超人じゃない。
──なら話は簡単よ。
もうひとりの私がささやく。
あんたが我慢すればいい。
あんたが気持ちを殺せばいい。
あんたが黙ってこの場を去ればいい。
そっか。そうよね。私がそう納得しかけると、さらにもうひとりの私が反論する。
何言ってんのよ。
好きなんでしょう。
周りのことなんて関係ないじゃん。
どちらの主張にも一理ある。どちらがより正しいのかはわからない。ただこんな中途ハンパな気持ちで、こなたと向き合ってもまともな話し合いができるとは思えなかった。
その時だった。再びドアが開いたのは。
中から現れたのは涼宮ハルヒ──ではなくて、涼宮ハルヒのコスプレをしたあいつ。例によって県立北高の制服を身にまとい、黄色いリボン付きのカチューシャで長い髪をまとめてる。
今いちばん会いたくない、だけど、今いちばん会いたかった人間だった。
「お帰りなさいませ、ご主人さま」
「やめんか」と私。
「まあまあ、ここはお約束ってことで。これでも飲みながらゆっくりしていってね」
トレイの上にふたつのコップが乗っかっている。薄褐色の液体に充たされたそれから、わずかにコーヒーのような香りが漂っていた。
「なんでこんなところで……」
「うーん、中だとかえって落ち着かないよ? ほら、何か大事な話があるんじゃないか、と思ってね」
「どうしてそれを?」
「みゆきさんからメールを貰ったから。かがみがこっちに向かってるって」
ニマニマとだらしない笑みを浮かべるこなた。なんだか手のひらの上で踊らされているような気がして無性に腹立たしい。
「さっきまではそのつもりだったんだけどね」
きっと私は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていることだろう。
「やっぱり今日はやめとく。帰るわ」
「ちょ……かがみ?」
わけがわからないという感じのこなたを残し、ひとり私は階段を急ぎ足で駆け下る……ことは残念ながらできなかった。眼下の踊り場にふたりの人影が見えたからだ。
誰だろう。私は足を止め、目を凝らす。
ふたりともおそろいの、飾り気のない紺色のブレザーとジャンパースカートに身を包んでいる。高校、いやひょっとすると中学の制服だろうか。
ひとりは襟のところできっちり髪を切り揃えていて、これで眼鏡でもかけていれば典型的な委員長タイプといった雰囲気をかもし出している。もうひとりはショートカットがとてもよく似合うスレンダーな少女。もしスカートを穿いていなければ少年と言われても信じてしまいそうだ。それでいてどことなく似た印象を受けるところを見ると、おそらくは姉妹かなにかなのだろう。そのふたりともが心配そうな顔で私のことをじいっと見つめていた。
──胸が鈍く痛む
ひょっとしたら修羅場モードだとでも思われただろうか。確かにこれじゃあまりにも言葉が足りなすぎる。誤解されても仕方ないかもね。
「カン違いしないでよね。あんたのこと、嫌いってワケじゃない。むしろその正反対なんだから」
ふたりの顔におやっという当惑の表情が浮かぶ。
「でも、それだけじゃ、気持ちだけじゃ、多分足りない」
私は、ふたりにも理解できるようにと、できるだけ言葉を選んで口にした。
「もし私たちが友人の枠を踏み超える関係になったとしたら」
「周囲の反応は、私にもなんとなく想像できるよ」
硬い声で、こなたが同意する。
「一時の感情に流されてしまいたくない。きっと悔いを残すことになるから。どうでもいい相手なら、遊び相手なら別にそれでもいいけどね。でも私にとってあんたは決してそんな存在じゃない。この世の誰よりも何よりも大切なの。だからこそ慎重に事を進めたい」
しだいにふたりの表情が当惑から理解、さらに全面的な賛意へと変化していくのがわかった。きっと、あいつも似たようなモンだろうな、と思う。
「こなた、お願いだからもう少し考えさせて。私たちに何が必要なのか。どうすべきか、どうしたいのか。ほかならぬ、あんたのことだからこそよ」
「かがみはおくびょうモノで、心配性で、見栄っ張りで考え方が硬くて、ほんとワガママだよね」
いつもの調子であいつが答えてくれる。それを聞いたふたりの顔にも薄い苦笑いが浮かんだ。
「ありがとう。私が私らしくいられるのは、きっとあんたのおかげよ」
ようやく私は、こなたのほうへと振り返る。多分、ふたりはもう大丈夫だと思ったから。
「私は後悔したくないし、あんたに後悔させたくもない。それだけはわかって」
「ん、待ってる。かがみは納得するまで考えて」
こなたは大きく同意のうなずきを返してくれた。
「それがたとえどんな結論でも、私とのことを真剣に考えてくれたという事実だけは忘れないから」
久々に見る、こなたの会心の笑顔だった。心の底からほっとする。どうやら私たちは一定の合意に達することができたようだ。
唐突にある単語が頭に浮かんだ。みゆきから、日下部から──正確には天原先生の恋人さんから聞かされた、白雪姫という単語が。
彼女はその後、どんな人生を過ごしたのだろうか。物語は何も語らない。
多分、王子と幸せに暮らしたのだろう。
多分、周囲から祝福されて。
多分、何一つ不自由なく。
でも、私たちには何もない。
おそらく、誰からも祝福されることもない。
おそらく、ハッピーエンドもない。
おそらく、何のメリットもない。
だけどこれは。
自らの意志で選ぶ運命。
自らの手で掴み取る選択。
自らの全てを賭けて歩む苦難の道。
私は白雪姫じゃない。
何一つ自分で選択しなかった白雪姫じゃない。
だから私は多分、白雪姫よりも幸せだ。
少なくとも今、この瞬間だけは。
「ごめんね、階段ふさいじゃって……あれ?」
話が一区切りついたところで、踊り場のふたりに詫びようとしたのだが、どういうわけか姿が見えない。あきれ果てて階下へ引き返してしまったのだろうか。
「どこ行ったのかしら、あの子たち」
「あの子たちって?」
「ほら、今までそこにいたでしょ。女の子がふたり」
「かがみが何を言ってるのか、よくわからないんだけど」
首を傾げながら、こなたが答える。
「私たちが話し合っている間中、階段には誰もいなかったよ?」
「ちょ、やだ……何言ってるのよ。だって、ついさっきまで踊り場に……」
そこまで言いかけて、ようやく理解が追いついた。
さきほどの少女たちの姿が、こなたには見えていなかったのだ。
◇
「まあまあ、とりあえず一息つかない。正直なところ、喉がカラカラなんだよねー」
ようやくいつものペースを取り戻したこなたが、ニマニマと笑いながらトレイを差し出してくる。
「まあいいけど。それにしても何なの、この得体の知れない液体は」
「これはね、キャラメル・ラテ。エスプレッソをベースにしたカフェラテに、キャラメル味のシロップで味付けしてるんだ」
「よりによってシロップかよ。誰がコーヒーにそんなの入れようなんて考えたんだろ。しかもなんかこれ、滅茶苦茶甘そうじゃない?」
「まあ、確かにコーヒーっぽくはないかもねー」
一段とニマニマ笑いが大きくなる。
「ほら、シアトル系コーヒーってあるじゃん。あの辺りの人たちが考えたらしいよ」
「それって、たとえばスタバとか?」
「そそ。シアトルのあるワシントン州は、別名『コーヒーステイツ』とも呼ばれてて、 米国内でもエスプレッソの消費率が高い州って言われてるんだって」
私にコップの一つを手渡しながら、こなたはなおも続ける。
「で、このシロップは、もともとカクテルやソーダとかっていう冷たい飲み物に入れるために開発されたものなんだけど、それをベースにしてシアトルの人たちがいろいろと改良して、今ではラテ専用のが製造されてるんだ」
「ふーん。結構工夫されてるのね」
そう言われてみると、なんだかキャラメルとエスプレッソの香りが意外にマッチしてるようにも思えてくる。
「じゃあ、いただきます」
例によって香りを試してから、恐る恐る一口含んでみた。
「うわっ、甘っ!」
覚悟していたつもりだったが、予想をはるかに上回るねっとりとした甘ったるさが口の中一杯に広がった。しかしすぐにエスプレッソの苦味が急速にそれを中和していく。かつて味わったことのない、なんとも風変わりなハーモニーじゃないか。
「確かにまあ、これはこれでアリかも知れない」
「もともと欧州でも、エスプレッソは砂糖やミルクを入れて飲む人が多いらしい。だから『じゃあシロップ入れてみよう』って発想があっても全然不思議じゃないよね」
スタバかー。やたら高級そうなイメージがあるんだけど、今度行ってみようかな。
「さっき地下鉄で天原先生の恋人さんから缶コーヒーをおごってもらったけど、この甘さはそれどころじゃないな」
「天原先生の恋人って、桜庭先生のこと?」
「え、いや、そうじゃなくって。うーん、どこから話せばいいものか」
私はさきほど地下鉄で出会った天原先生の恋人さんの話をかいつまんで聞かせた。
はあっと、こなたが盛大にため息を吐く。
「かがみってさ、たまに夢見がちっていうか、ものすごーくアホの子なんじゃないかって思うことがあるよ。ほらこの間、金魚に甘声で話しかけるって聞いたときも」
「なんだその哀れむような目は。ものすごーくムカつくんですけど」
そう言いながらも、私は無理もないなと思う。もし自分が逆の立場だったとしたら、何の物的証拠もなしに信じることなどできないだろう。
ん、待てよ、証拠か。
「じゃあほら、これ見てよ。彼女が置いていった空き缶の写真」
ケータイを取り出し、さきほど撮影した写真を呼び出す。それを見たこなたの態度が一変した。
「ちょ……かがみ。これ、エヴァ缶じゃん!」
「エヴァ缶? 何よそれ」
聞きなれない単語に、今度は私のほうが首を傾げてしまう。
「九十年代に爆発的ブームを巻き起こした『新世紀エヴァンゲリオン』ってアニメの宣伝のために、UCCとタイアップして作った缶コーヒーのことっ」
よほど嬉しかったのだろうか。声が上ずっている。
「しかもこれ、一九九七年に発売されたバージョンだから。間違いないよ。最近再販されたまがい物と違って、ちゃんと漢字で『乳飲料』って書いてあるし」
すっかり興奮状態に陥ったこなたは、私の手をケータイごと握りしめ、そのまま上下に振り回す。
「信じるよっ。かがみの言ったこと、全面的に。うんっ!」
「なんか、ものすごく嫌な信用のされ方なんだが……」
どうにも納得できない微妙な気持ちを抱えながら、私は先ほどの地下鉄での会話を思い浮かべる。そういえば、あの天原先生の恋人さん、ちょっと……いや、かなりオタクっぽかったもんなぁ。
それにしても、こんな一部の人たちににしかわからないような証拠の残し方をするとはね。もしかしたらこれは、こなた宛のメッセージなのかも知れない。
私がそんなことを考えていると、どこからともなくかすかな振動音が響いてきた。こなたがそれに気づいて自分のふところからケータイを取り出す。
「ちょっとごめん。……ん、黒井先生からだ」
「黒井先生がどうかしたの?」
「うーん。なんでも自分の参加したノラパーティがボス戦で全滅しちゃったから、せめて骨だけでも拾いに来てほしいって」
「あー、そういうことか。確か、教会に連れて行くんだっけ?」
あれ。
ちょっと待て。
こんなシチュ、以前にもどこかであったような……。
『ボスの逆襲で、今にもパーティが全滅しそうなんだからっ!』
こなたの声が。
『せめて死体だけでも教会に連れて行ってくれなきゃ、復活も出来ないよーー』
そう叫んでいる。
「ま、家に帰ってからだねー。さすがにケータイだけじゃネトゲは辛いし」
ニマニマ笑いを浮かべていたこなたの表情がふっと陰る。どうやら私の異変に気づいたらしい。
「どったの、かがみん?」
だがすでに私は、こなたの言葉に答える余裕をほとんど失っていた。
頭の中でぱたぱたと絵が組みあがる。
あの子たちと出会った記憶が鮮明によみがえる。
消したくても消しきれなかった、胸の鈍い痛みとともに──
『ただいまー。今日も疲れたな』
『お帰り、かがみ。ご飯、お風呂、それともわ・た・し?』
『いやさあ、そういう冗談はせめて相手の目を見て言わないか』
スーツの上着をハンガーに引っかけると、私はこなたの頭を両手でがしっと掴んで、無理やりこちらに振り向かせようとする。
『PCの画面を真剣に見つめながらそんなこと言っても、説得力ゼロだっつーの』
『ちょ、ちょっと待ってよ。いま重大な局面を迎えてるんだって。ボスの逆襲で、今にもパーティが全滅しそうなんだからっ!』
悲痛な声で窮状を訴えるこなた。それとほぼ同時に、どこからともなく黄色い悲鳴が沸き上がるのが聞こえた。
『こなたママ、後ろから何やってんの! この状況で味方の下着盗んでる場合じゃないでしょ!!』
『シーフに戦闘までは期待してないけど、せめてポーション使って回復するくらいの機転、利かせてよっ!』
私たちの愛しい娘たちが、奥の部屋から転がるように飛び出してくるなり、こなたに向かって文句を言い始める。
『ちょ、おま。子どもたちまで巻き込んでネトゲ三昧かっ!』
頭を抱えたくなるほどの惨状。ようやく今日の激務を終えて我が家にたどり着いたというのに、まったくこいつらときたら。
『かがみー、助けてよーーー。このままじゃ私まで死んじゃう。せめて死体だけでも教会に連れて行ってくれなきゃ、復活も出来ないよーー』
『かがみママー、助けてー』
『お願い、かがみママ。愛してるからっ』
しかも代わる代わる懇願してくるじゃないか。
『ああっ、もうっ!』
髪をかきむしりたくなるような気分を我慢しながら、私はタイトスカートのポケットから携帯端末を取り出す。
『それで、今どこなの? これから助けに行くから、三人ともちょっと待ってなさいっ』
『さすがはかがみママ!!!』
狂喜する三人の歓声が、十五年のローンを残した我が家いっぱいに響き渡った──
そうよ、あの時。こなたと初めて出かけた喫茶店。ロバーツ・スペシャルブレンドを味わった帰り道で。てっきり私の妄想か何かだと思い込んでたのに。
──なんてこと。
両手で自身の身体を力任せに抱きしめる。
身体の奥底から熱いものが湧き上がる。
呼吸がひどく苦しい。
胸が鈍く痛む。
「かがみ……?」
こなたが心配そうに私の右手の甲に触れる。しかし今の私には応じるだけの力がない。
もしも、私がコーヒーにはまらなかったら。
もしも、こなたがあの喫茶店に誘わなかったら。
もしも、桜庭先生が天原先生の物語を語らなかったら。
もしも、みゆきが私たちのために行動を起こさなかったら。
今日私が、ここまでやってくることはなかったはず。
そうとも。今ならはっきりと理解できる。あの光景は、あの子たちは、妄想でも幻覚でもない。私の中に眠っていた夢……いや可能性とでも呼ぶべきものだ。
選ばれなかった可能性。
喪われてしまった可能性。
これから見つけ出す可能性。
無数のさまざまな可能性が私の中でぐるぐると渦巻き溶け合い、しだいにひとつの明確な形をあらわしていく。
それは巌のような決意。
──約束する。
──必ず見つけてみせる。
──あなたたちと出会える方法を。
そして私は、顔を上げてもう一度無人の踊り場へ目を向けると、私たちの愛しい娘たちに向けて祈るような気持ちで語りかけた。
「だからお願い。もう少しだけ待ってて。未来で」
くすんだコンクリートの壁に一瞬、娘たちの笑顔が浮かんで見えたような気がした。
(Fin)
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