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「ハネムーンですけど何か?・その1」
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《一日目 一五時〇八分》
成田空港を飛び立ってそろそろ九時間。強烈なジェットサウンドですら、心地よい子守唄に聞こえ始めた頃だった。フィンエアー成田発ヴァンター行AY〇七四便はようやく高度を下げ、着陸態勢に入りつつある。
抜けるような群青色の空だった。綿菓子を連想させる断雲が数個、まるでアクセントのように浮かんでいる。地上には深緑の森林地帯が地平線まで広がり、そこかしこに蒼く輝く大小無数の湖が点在していた。一万二千年前に終了した最後の氷河期によって形成されたというこの特異な地形。そこは森と湖と妖精たちの王国だ。
そんな光景を、窓際のビジネスシートに陣取ったこなたが飽くことなく眺めている。てっきり二次元にしか興味がないと思っていたのに、さすがのこいつにも何か感じるところがあるらしい。
やがて私の方を振り返ったこなたが、眼をキラキラと輝かせながら感慨深げに口を開いた。
「いや~、これがウィッチーズの舞っていた空かぁ」
思わず身体中から、力という力が抜けていくのを感じた。
「……また何かのアニメネタか?」
「違うよかがみ、失礼な。これはれっきとしたラノベネタ」
「どこが『れっきとした』なんだか。初めての海外旅行だってのに、もう少しまともな感想はないのか」
「むふふ。私はかがみんといっしょなら、いつだってどこだってクライマックスなのだよ」
「あーもう、恥ずかしい台詞はそこまでっ。ほら、シートベルトちゃんと締めたの? リクライニングも元の位置に戻してっ」
照れ隠しのため、私はわざと厳しい口調で注意する。
「うー、なんか私の保護者みたい。つまんない、つまんないよ~、かがみぃ」
「あのねぇ、元はといえば、あんたがちゃんとしないからでしょーが。怪我でもしたらせっかくの旅行が台無しでしょ」
「そっか、せっかくの私とかがみの『ハネムーン』だもんねぇ」
ニヨニヨとこなたが笑う。思わずこめかみに血管が浮きそうになる。こうやって死ぬまで私は、こいつにからかわれ続けるのかも知れない。
そう、あの仮装行列の時だって──
『ねえ、かがみ……。たまには周りに流されてみるのもいいんじゃないかな』
『たとえば、さっきキスしろってコール起きてたら?』
『私はね、かがみとだったら……いいよ?』
私は何で期待してたんだろうか。
私は何か期待してたんだろうか。
私は何を期待してたんだろうか。
──期待……ですって?
「どったの、かがみん?」
「へ、い、いや。別になんでもないわよ」
動揺を押し隠すために適当な話をふる。
「しっかし、体育祭の仮装行列の賞品が『ハネムーン』ツアーだなんてマジありえないよね。ったく、どんだけ金持ちなんだよ、うちの学校」
「まあ、最優秀カップル賞だけだけどネ」
逆効果だった。
思い出すだけで頬が熱くなるのを止められない。ついこなたに乗せられて、私は全校生徒の前でウェディングドレス姿を披露。しかもあろうことか、私のことをおもちゃにしたこなたを追いかけ回す、という醜態までさらしてしまったのだ。結果的にそれが最優秀賞の原動力になったみたいだけど……。でも、あとで冷静になって考えると、あれは一生モノの恥さらしじゃないだろうか。
「でもさ、私たちはもちろん、僅差で敗れたゆたかちゃんとみなみちゃん、どっちも女の子同士のカップルっていうのは、正直どうかと思わない?」
「あと、規定で番外になっちゃったけど、桜庭先生と天原先生の組み合わせも得票数では堂々第三位だし」
改めて私たちは深いため息をついた。本当に投票した生徒達はなんの疑問も感じなかったのだろうか。そこはかとなく日本の未来に不安を覚える。
もっともこのツアー、多少の条件がついている。旅行の体験レポートを作成して、しかるべき筋に提出することが義務付けられているのだ。でなければ高校生ごときに、無料で海外旅行をプレゼントするような美味しい話などあるはずがない。そもそも添乗員付きのスペイン周遊八日間のツアーなら、普通一人あたり三十万は下らないお金が必要だ。この程度の条件で楽しめるのなら、まさに破格の待遇というべきだろう。受験直前の貴重な八日間と天秤にかけるだけの価値はある。
──まして、こなたとふたりきりなら、ね。
◇
《同日 一五時一三分》
ドンっとお尻に軽いショック。ただちにエンジン逆噴射によるGを感じる。空を飛んでいる時には感じなかった不気味な振動が足元から伝わってくる。窓の外の流れるような風景がしだいに遅くなっていく。シートベルト着用のサインが消える。ポーンというチャイムとクセのある英語のアナウンスが響く。わずかに安堵の香りが客室に漂う。
こうして私たちの乗った飛行機は、無事ヘルシンキ・ヴァンター国際空港に着陸したのだった。
「でもさ、なんでフィンランドなわけ? 私たち、スペインに行くんじゃなかったっけ?」
「今は日本からスペインへの直行便ってないんだって。って言うか、直行便自体、少なくなってるらしいわよ。欧州だとヘルシンキやフランクフルト、ヒースローあたりで乗り換えるのが一般的みたい」
「ふーん。今日のかがみ、まるでみゆきさんみたいだネ」
「いや、実際みゆきの受け売りだし」
私は肩を軽くすくめて見せる。
乗降口では、二人の女性フライトアテンダントさんが乗客を見送っていた。こういってはなんだが、結構ご年配のように見える。
「ありがとう、さようなら」
私たちを日本人だと判断したのだろう。営業スマイルを浮かべながら、片言の日本語で送り出してくれる。そこで私も、覚えたてのフィンランド語を使ってみた。
『キートス(ありがとう)、ナケミーン(さようなら)』
アテンダントさんたちは一瞬顔を見合わせたが、すぐに晴れやかな笑顔を浮かべて向き直った。
『ナケミーン』
あとから浮かんだ笑顔が最初のものと明らかに違って見えたのは、ただの私の思い込みではないと思う。
タラップを降りると、すでに何台ものリムジンバスが横付けされていた。先に降り立った人々であたりはごった返している。
「かがみ、こっちこっち」
比較的空いているバスを、こなたが目ざとく見つけ出す。私の手をグイグイ引きながら、こなたはアスファルトで舗装された地面を走る。男、女、若者、お年寄り、子ども連れ、カップル、日系、欧米系など、さまざまな人々で構成された集団をかき分け、なんとか二人分の席を確保することに成功した。
「まったく、要領だけはいいんだから」
「んー、もっと褒めてくれたまえ」
思わずツッコむ私に、こなたは満足そうなニマニマ顔で答える。
「いや、全然褒めてないって」
「ぷくくく、ツンモード全開のかがみ萌え~」
「だから萌えっていうな。ってか、人前で抱きつくなっ」
「んふふふ、じゃあ二人っきりならOKってこと? かがみはほんとに可愛いねぇ」
「バ、バカッ、だから、そういう意味じゃないってば!」
ったくもう、顔が紅くなるようなこと言わないでよねっ。
◇
《同日 一五時二五分》
すでに入国審査の窓口には行列ができていた。この空港の年間利用者は東京都の人口をも上回り、その七五%が国際線だという話を思い出す。
現在のEU加盟国──フィンランドやスペインなんかもだけど──のほとんどはシェンゲン協定に参加している。細かいことを言い出すとキリがないけど、私のおおざっぱな理解によればこんな感じだ。
1)シェンゲン協定国外(日本など)から協定国内に旅行する場合、最初に訪問する協定国で入国手続きを行い、 協定国内から協定国外に出国する時に出国手続きを行う。
2)協定国間を移動する場合、出入国審査は一切行われない。
3)シェンゲン協定加盟国外からの入国者は、ビザなしで六ケ月以内九〇日間、シェンゲン協定加盟国に滞在できる。
というわけで、今回の私たちのように八日間の観光旅行をフィンランド経由スペインで行うケースだと、1)の規定によりフィンランドでだけ入国審査を行うことになる。
行列の大半は東洋系の人々で構成されていたが、やたら中国語っぽい言葉が飛び交っている。どうやら中国発か台湾発の飛行機とバッティングしたらしい。ここでも中華帝国の躍進ぶりは著しいというわけだ。これは受験勉強、いや学校の勉強だけでは決してわからないことかも知れない。黒井先生あたりなら喜んで聞いてくれるだろうか。
「いい、入国審査の窓口はひとりづつだから。私が先に行くからできるだけまねをして」
「え~、なんか怖いよ。いっしょにいて欲しいなぁ」
「しょうがないでしょ、規則なんだから。もし何か話しかけられても、とにかく『サイトシーイング』で押し切ればなんとかなるから」
「うん、わかった。『サイトシーイング』だね」
「そうそう、その調子。ほら、行くわよ。ついて来て」
特に問題なく審査は三〇分ほどで終了。だけどスペイン行きの飛行機の出発まであまり時間がなくて、ロングホール・ラウンジの利用は無理っぽい。せっかくのビジネスクラス特権を利用できなくて残念だ。
建前上、成田の出国審査を通過して以降は日本じゃないわけだが、実際に外国の土地を踏みしめるのはここが初めてとなる。いったいこの先に何が待ち受けているのか。大きな期待とほんの少しの不安を胸に、私はこなたの手を握り締めると、おそらくは無数の免税店が立ち並んでいるであろう乗り継ぎロビーへと向かったのだった。
(つづく)
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