時たまこうやって、二人きりでふらりと喫茶店に出かけることがある。
誘うのは、決まって彼女の方からだ。
そんな時の彼女の口はひどく重い。
大抵はただエスプレッソを飲みながら、もの思いにふけっているだけ。
だから私は、隣でひたすら沈黙する。
おそらくは遠い昔のことでも思い出しているのだろうか。
本来ならここに座っていたであろう、あの娘のことを。
もしかしたら、たしなめるべきなのかもしれない。
彼女に最も近い存在である、この私が。
しかし私に、そんな資格はない。
恥、あるいは後ろめたさ。
そんな言葉の意味を知っているから。
だから私は、隣でひたすら沈黙する。
これが私に行える唯一の贖罪の方法なのだと。
そんな風に自分の心さえも偽る呪文を秘かに唱えながら。
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『コーヒーブレイク/エスプレッソ』
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カランコロン、という軽やかなベルの音が聞こえたのでドアの方に目を向けると、ちょうど一人の少女が店に入ってきたのが見えた。
「ん、柊じゃないか。奇遇だな」
「あれ、桜庭先生?」
柊かがみ。私が担任を勤めるクラスの生徒の一人だった。
控えめにいっても、彼女はかなりの美少女の部類に入るだろう。背は高すぎず低からず、総合的なプロポーションも水準以上。後ろで二つにまとめた、枝毛一本存在しないのではないかと思わせる長くつややかな髪。整った顔立ちに気の強さを表す、ややつり目気味の瞳。おまけに成績優秀で面倒見もなかなかいいとくれば、これはもう放っておけという方が無理というものだろう、普通なら。
「なんだ。今日はお前の嫁はいっしょじゃないのか」
「いやぁ、こなたは今日はバイトで……って、誰が嫁ですか、誰がっ」
唯一にして最大の障害は、彼女にはすでに想い人がいて、それをクラスの、いや最近では学校の生徒の大半が認識している、という単純な事実だった。ただしその『大半』の中に、当の本人たちは含まれていない。そのため往々にして出来の悪いコメディでも眺めているような気分になることもしばしばだ。
「私は別に泉のことだとはひとことも言ってないんだがな」
「ぐっ……」
言葉に詰まった柊を救ったのは、私の隣に座っていた妙齢の女性の一言だった。
「まあまあ、桜庭先生。あんまり生徒をいじめちゃ可愛そうですよ」
「それじゃまるで、私が柊のことを目の敵にしてるみたいじゃないか、ふゆき」
「あら、違ったんですか?」
「違う」と抗議の意味を込めて、私は顔をしかめて見せた。
だがふゆきはそれを軽く無視し、柊に笑いかける。そこには先ほどまでの影の欠片もない。
「とまあ、悪気はない、と桜庭先生は言っているみたいですよ。だから許してあげてね」
「はあ、わかりました。ええと確か、うちの高校の養護の先生──ですよね?」
「彼女は天原ふゆき。我が陵桜学園の保健室に咲き誇る一輪の薔薇とはこいつのことだ」
「なんですか、その出来の悪い二つ名は」
ぷっ、とふゆきが小さく噴き出した。
それにしても、こんなところで柊と出くわすとは。これはいい機会かもしれない。
◇
「しかしお前、よく知ってたな。こんな場末の喫茶店」
「ええまあ。たまに本を読みにくるんですよ。ここはコーヒーも美味しいし、とても落ち着くので。もっとも今日は、借りていた本を返しに来ただけですけどね」
そういうと彼女は、手にした一冊の単行本を差し出した。
「ほう、佐藤大輔か。なかなかいい趣味をしてるな」
「知ってるんですか、この本の作家」
「よく知ってるぞ。一時期ハマったからな。主要な本は全部持ってる」
「それは凄いですね。ここには『征途』しかないので、他の本を買おうかどうか迷っていたところなんです。何かお勧めの本はありますか?」
「そうだな。架空戦記が好きなのなら『侵攻作戦パシフィック・ストーム』、SF要素に惹かれたなら『遥かなる星』、現代社会に対する問題提起を読みたいのなら『地球連邦の興亡』。そんなところか」
「いろいろ書いてるんですね。それにしても、桜庭先生がこの手の本を読むなんて、なんか意外かも」
「若い頃に仮想戦記がブームになってな。結構いろいろ読んだぞ。まあ、若気の至りって奴だ」
「他にはどんな本があったんですか?」
「うーん、そうだな……」
一瞬だけ、過去に読み漁った本たちを思い浮かべる。何十、何百という本のタイトルが脳裏に現われては消えた。
「私が勧めるとしたら、佐藤大輔のほかには谷甲州の『覇者の戦塵』シリーズと、あとは川又千秋の『ラバウル烈風空戦録』あたりかな。それと横山信義という作家の名前は覚えておいた方がいい」
「谷甲州って、確か『航空宇宙軍史』を書いていた方ですよね」
「そうだ。あれを読んだのか。お前、実はマニアだな」
「いやまあ、父がそういう系統の本が好きなので、いつの間にか」
どこか照れくさそうな表情を浮かべながら柊が答える。どうやら彼女はお父さんっ子らしい。
「そうか。お前の父上とはいい酒が飲めそうだ。それはさておき、『航空宇宙軍史』を読んだのなら、『軌道傭兵』シリーズはどうだ?」
「それはまだ読んでいません。どんな内容なんですか?」
「近未来の宇宙開発をテーマにしたハードSFだ。主人公のハスミ大佐は『覇者の戦塵』にも登場するから、読んでおいて損はない」
いつの間にか私は夢中になりかけていた。これから語るつもりの本題にむけての前置き、という側面も確かにある。だが何より、久しぶりにこの手の話題を楽しめる相手を見つけたことが、私にはうれしくて仕方がなかったのだ。本来の目的を忘れてしまいそうになるくらいに。
「ところでお前、ここのエスプレッソは飲んだことあるか?」
「ないですね。ブレンドとかは確かに美味しかったですが」
「おいおい、エスプレッソと普通のコーヒーをいっしょにするな」
また始まった、という表情をふゆきが浮かべるが、とりあえずそれは見なかったことにする。
「そもそもドリップ式のコーヒーとエスプレッソでは成分からして異なる。製法がまるで違うからな。エスプレッソは専用のマシンを使って、高圧をかけてドリップ式より短時間に抽出を行う。9気圧が理想、と言われているようだが」
「ああ、あの機械のことですね」
「そうだ」と、柊の視線の先にあるものを見て、私は軽く同意する。
「コーヒー豆には何百種類もの成分が含まれているが、高圧がかかるから多く溶けだすという成分もあれば、短時間のため余り溶け出さないという成分もある。だからたとえ同じ豆を使ったとしても、ドリップ式のコーヒーとエスプレッソでは、単純に同じ味になるわけじゃない」
「なるほど、言われてみればもっともですね」
「それにドリップコーヒー一杯分のコーヒー豆で作るエスプレッソは、普通のそれよりずっと少ない。高圧をかけるから、無理やり抽出すると雑味成分まで溶け出してしまうんだ。だからエスプレッソを飲むにはデミタスという専用のカップを使う。ちなみにデミタスとはフランス語で『小さなカップ』という意味だ」
私は先ほどから手にしていたノンノンの絵が描かれたデミタスを示してみせる。
「というわけで、お前も一杯どうだ。そのくらいなら奢るぞ」
「そういうことなら、喜んで。まだ少しくらい時間はありますから」
笑いながら柊は、ふゆきと反対側のカウンター席に腰を下ろした。
「だがエスプレッソだけ、というのはいまひとつかな。お前、何かケーキでも頼め」
「あれ、ここってケーキもあるんですか?」
「出前できるぞ。ほら、メニュー」
「でも……なあ」
身をよじって柊が抵抗する。
「カロリーが心配ですか?」
それを見たふゆきが、微笑をたたえながら口をはさんできた。
「ええ、まあ」
「強いコーヒーは新陳代謝を活発にするんですよ。ケーキ一切れくらいならそれほど問題にはならないでしょう」
どうやら今度はふゆきのターンのようだ。コーヒー、というところをエスプレッソ、と突っ込みたい誘惑にかろうじて耐える。
「大体、今の若い人はやせ過ぎ」
やや眉をひそめながら、ふゆきはなおも続ける。念のために忠告しておくと、こういう時のふゆきに決して逆らってはならない。ひとこと反論しようものなら、それこそ百倍、千倍になって返ってくるからだ。
「気持ちはわからないでもないですが、でも健康を害してしまったら、元も子もありませんよ」
あくまで真摯な姿勢を崩さずに、ふゆきはさらに言いつのる。無論そこには一片の悪意もない。だからこそ始末に負えないわけであるが。
「それに、相手の方も悲しむでしょう?」
「ですから別に、こなたと私は何も……あ」
しまった、という風情で柊が自分の口を手で押さえるがもう遅い。肩を震わせて、ふゆきは笑いを堪えている。こういうコメディタッチな空気はどうにも苦手だ。背中がむずがゆくなる。
◇
「そういえば、ムーミンの作者の人がフィンランドの人だって、ここで初めて知ったんですよね」
ミーの絵柄のデミタスを興味深そうに眺めていた柊が、ふとそんな事をつぶやいた。
「ムーミンか。それの作者のトーベ=ヤンソンが同性愛者だってことは知ってるか?」
「え……そ、そうなんですか?」
虚を突かれた、という表情を柊が浮かべる。そのような話が私から飛び出すとは予想していなかったのだろう。
だが私には、この絶好の機会を逃すつもりはさらさらなかった。
「ヤンソンは、人生の大半をトゥーリッキ・ピエティラというパートナーと過ごした。ムーミンという作品自体、この二人の合作という側面もあるそうだ」
「へええ、それは全然知りませんでした」
「たとえばこのノンノンの絵も、画家としても一流だったピエティラがデザインしたのかもな」
「ノンノン?」
まるで幼子のように柊が小首を傾げる。
「ああ、お前の世代はフローレン、だったか。ムーミンの恋人は、私たちの頃はノンノン、という名前だったんだ。な、ふゆき?」
「ええ、もちろんフローレンですとも」
こ、この裏切者っ。私はふゆきを思い切り睨みつけたが、彼女はしれっと微笑を浮かべるだけだった。
さて、前置きはこのくらいにして、そろそろ本題に入るとしよう。
「ところでお前、単刀直入に聞くが、泉のことをどう思っているんだ」
「どうって……そりゃ、ただの友達。友達ですけど」
「そうか? とてもそうは見えないがな」
頬を赤らめ、視線をはずす。困惑がありありと見て取れる態度だった。
「ただの友達以上の好意を抱いていることに気づいてしまい、その事実に戸惑っている。そういう風に見えると言ったら?」
「バカバカしい。ありえませんよ、そんなこと」
「どうかな」と私。
「だって、変じゃないですか。そんな、女の子同士でなんて」
「そりゃかなりの差別的発言だな」
「仮に、もし仮に私がそういう感情を持っていたとしても、こなたもそう思ってるとは限らないじゃないですか」
「本人に聞いてみたのか」
「聞けるわけないですよ、そんなことっ」
しだいに柊の語気が強まっていく。
「そんなこと、か」
努めて平静を装ったつもりだが、果たしてうまくいっているだろうか。まあ今の柊の精神状態では、気取られる恐れはなさそうだが。
「もし不用意にそんなことを口走ったら嫌われるかも。友達ですらいられなくなるかも。それなら今のままの方がまし。たとえ自分の心を押し殺してでも。そんなところか」
「先生に何がわかるっていうんですかっ!」
激高した柊がついに悲鳴を上げ、席から弾かれるように立ち上がる。だがすぐに我に返ったらしい。頭を下げて見せた。
「……すいません、つい興奮してしまって」
しかたがない、この手だけは使いたくなかったが。
「ひとつ昔話を聞かせてやろう。つまらない話だが」
私は居住まいを正すと、柊に向き直った。普段見せたことのない私の態度に、柊が全身で緊張するのがわかる。
「昔あるところに、一組のカップルがいた。とても仲睦まじい二人だった。まるで生まれる前からそうなることが約束されていたかのように。周囲の目も気にせずにな。
一人は都会からやってきた少々変わった娘。もう一人は土地の有力者の血を引く気丈な少女。生まれも育ちもまるで異なる二人が、いったいどんな心の交流を重ねていたのかはわからない。古くからの因習に縛られた土地に生まれ育った少女にとって、異郷からやってきたその娘の存在は、ある種の救いだったのかもな。
だがその娘は不治の病に倒れた。
もちろん医師たちはできる限りの手を尽くしてくれた。強い副作用のある薬。リハビリテーション。遂には研究途上の新薬まで投入して。だがしかし、しだいに衰えていく娘のことを、救うことはできなかった。
それでも少女だけは娘を支え続けた。ある時は、白い目を向ける人々から娘を護る盾となった。またある時は、懸命に歩行訓練を続ける娘の杖となった。やがて病状が進行して娘が歩けなくなると、今度は娘の目となり、ベッドの傍らで自分の見た外の様子を話し続けた。都会育ちの娘にとって、その土地の豊かな自然は何よりの心の慰めだったからだ。
そしてある年の12月24日。娘はこの世を去った。それは最悪のクリスマスプレゼント。少女の心には思い出と、決して癒えない傷だけが残った。
だがそんな彼女の心の隙間に、まんまと入り込んだ奴がいた。今でもそいつらは、煮え切らない関係をダラダラと続けている。
そんな、つまらない話だ」
そういい終えてから私は、ふゆきの方にちらりと視線を走らせた。しかし彼女は何の反応も示さず、ただ黙って空っぽのデミタスを見つめている。事情を察したらしい柊が息を呑む気配を、私は肌だけで感じていた。
悲劇的な話を持ち出して相手の道義心に訴えかける。正面切って反論できる者などめったに存在しない。まったく、説得の外道じゃないか。
だがここで手を緩めるわけにはいかない。
「答えはお前の心の中にあるはず。逃げるな、まっすぐ向き合え。どっちつかずの態度は時として残酷だぞ」
「でも──そんな、私……」
動揺を隠し切れない柊に対し、私はさらにたたみかける。
「後悔しないように、よくよく考えてみることだ。時間はたっぷりある。生きてさえいれば」
彼女は完全に沈黙し、一言も反論するそぶりを見せようとはしなかった。
◇
柊が店を後にしてから、私はもう一杯エスプレッソを頼んだ。それを待っている間のことだ。
「約束してくれますか? 決して私より先には死なない、と」
ぽつり、とふゆきがつぶやいた。
「たとえ私たちがこの先、別々の道を歩くことになったとしても」
どこか思いつめたような表情を浮かべながら、彼女が言葉を重ねる。
「いいよ。約束する」
他になんと答えられるだろうか。誰か教えて欲しいものだ。なんだったら、この席に座る権利をくれてやってもいい。
「ありがとう、ひかるちゃん」
かろうじて微笑らしきものを浮かべながら、か細い声で彼女は私に礼を言った。どんな罵詈雑言よりも堪える一言だった。いっそ罵ってくれたほうが、まだ救われるかも知れない。
最後のエスプレッソは、どれほど砂糖を入れても、一向に甘くなる気配はなかった。
2009.01.25 追記
ひかるが語った昔話に興味がある方は、咲夜のオリジナルSS
「いばらの森奇譚」、
「副委員長とあたし」および
「初冬のひととき/終わりの始まり」
も併せてお読みになるといいでしょう。
これが元ネタになっていますので。
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