──この崩れかけた世界の片隅で
──人知れず朽ち果てようとしていた私の心。
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『我等が倶楽部へようこそ』
──高良みゆきの優しい架空戦記入門──
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夢とは何でしょうか?
たとえば脳の電気信号のなせる技とか、あるいは記憶の整理とか、諸説ありますね。
そもそも一口で夢といっても、いろいろな種類があります。
正夢とか予知夢とか、あるいは悪夢とか。
では私が繰り返し見るあの夢とは、いったいなんなのでしょう。
わからない、でも、わかっているのです。
それは遠い昔の、幼いころの自分の姿。
もう二度と思い出したくない、とても苦い記憶なのでした──。
◇
「にげたぞっ」
情け容赦なく照りつける八月の日差し。
抜けるような群青色の空に浮かぶ、まるで綿菓子を思わせる真っ白い断雲。
「あっちだっ」
陽炎でゆらめく、かなたの色鮮やかな新緑の林。
整然と並ぶキャベツたち。
「おっかけろっ!」
心和む用水路のせせらぎ。
手足にまとわりつく生暖かかい風。
むせ返るような土ぼこりと自分の汗の匂い。
そして私たちが駆け抜けていくのは、深いわだちの跡が残る、凸凹だらけのあぜ道。
「みゆきちゃん、がんばって!」
自分の名を呼ばれ、思わず振り返りそうになりました。
でもそんなことをしたら最後、あっという間にお目当ての物を見失ってしまいます。
しかたがないので「うんっ」と返事だけして、手にした捕虫網をぐいっと握り直しました。
私たちが次の獲物と見定めたのは、一匹のとてつもなく美しいトンボ。
それは幼い自分の手のひらよりも大きくて、キラキラと羽が銀色に輝いていて、
クリクリとよく動く黄緑色の頭で私のことを見つめていたのです。
是が非でもあれを自分のものにしたい。そう思いました。
「えいっ」
狭い用水路を一息で飛び越え。
広大なキャベツ畑を猛然と踏み荒らし。
いつの間にか目前には林が迫ってきていました。
ですがその頃の私は、まだ『諦める』という言葉を知らなかったのです。
「はあ、はあ、はあっ」
喉が酸素を求めて震えます。
心臓が早鐘のように鳴り響きます。
身体中から滝のように汗が吹き出します。
でもそんな私のことをまるであざ笑うかのように、トンボは軽やかに宙を舞っていて。
残念ですがこのままでは、とても追いつけそうにありません。
それでも絶対逃がしたくない。その一心で、私は無我夢中で捕虫網を振り回しました。
──届け。
もしかすると何か超自然的な存在が、私のことを哀れんでくれたのかも知れません。
ふと気がつくと、網には件のトンボがしっかりと捕らえられていたのでした。
「やったぁ!」
嬉々として網に手を入れ、慎重にトンボを取り出すと、私はみなさんにもよく見えるように
高々と獲物を掲げました。
「ほらみて、つかまえたよ。こーんなにおおきなトンボ!」
ところが、期待した反応はどこからもありません。
「あれ」
不思議に思い周りを見回すと、先ほどまで一緒にトンボを追いかけていたはずの友達や親戚の子ども達が、奇妙なことに誰一人として見当たらなかったのです。
「ねえみんな──どこ?」
そう、私は見慣れぬ景色の中にただひとり、ポツンと取り残されていたのでした。
それまで生暖かかったはずの風が、なぜか急に嘘寒いものに感じられたことを覚えています。
そして──。
◇
いつものように、ここで目が覚めました。
八畳ほどの私の寝室は、何事もなく暗闇と静寂に包まれています。
ベッドから半身を起こし、枕もとの時計を手に取ると、まだ午前二時をほんの少し回ったばかり。ひとりで眠るのがあたりまえになった昨今ですが、あの夢を見てしまった後だけは、ほんの少しだけ人恋しくなりますね。
でもまさか高校生にもなって、別室で眠りこけているはずの母の懐に潜りこむ、というわけにもいきませんし。しかたがないので、朝になるまで膝を抱えて丸くなることにしました。
本を読むことが何よりも好き。
ネットで新たな知識の欠片を見つけることが無上の喜び。
探せば探すほど、そして識れば識るほど、知の世界は奥が深くて底が知れない。
それほどまでにこの世界は、新たな発見に満ちている。
とても、とてもワクワクします。
この喜びを、誰かと分かち合いたい。
誰も見たことのない、この私だけが見ている光景を共有したい。
そう願っていたこともありました。
けれど。
何かに夢中になるといつの間にか周りが見えなくなって。
ふと振り返るとそこには誰もいなくなって。
いつもひとりっきりで取り残されている。
私が丹精込めて守り育てた、この秘密の花園を共に眺めてくれる人など、どこにもいない。
あれからずいぶんと身体も成長した。
比較にならないほどの知識も身につけた。
なのにあの頃から、何ひとつ状況は変わっていない気がします。
どこでも、ひとりぼっち。
いつも、ひとりぼっち。
もう、慣れた。
もう、諦めた。
──嘘つき。
◇
翌朝。
私が眠い目をこすりながら、ダイニングでいつもより少な目の朝食を取っていると、母が心配そうな表情を浮かべながら話しかけてきました。
「みゆき、なんだか顔色がよくないわよ。ひょっとして風邪でも引いた?」
「いえ、決してそういうわけでは。昨日はあまりよく眠れなかったので、おそらくそのせいではないかと」
「そうなの。じゃあ、お母さんがとっておきの飲み物を用意してあげる」
「いえそんな、どうぞお気遣いなく」
「いいからいいから。ちょっと待っててね」
しばらくして戻ってきた彼女から、私は小さなマグカップを受け取りました。外見は、まあ普通です。それに香りも特に問題なさそう。試しに一口含んでみます。
なんとも形容しがたい、摩訶不思議な味が口の中いっぱいに広がりました。
コーヒーのような、牛乳のような、でもとても甘ったるくて。どうやら通常の三倍は砂糖が入っているようです。
「あの、これは……」
「アーモンド・オレ。おいしいでしょ」
「は、はあ」
ニコニコと微笑んでいる母の顔を見ていると、私はそれ以上何も言えなくなってしまうのです。でもだからといって、このままでは私の味覚神経がどうにかなりそうですね。なんとか口実を見つけてこの場を切り抜けないと。
「あ、そろそろ用意をしないと遅刻してしまいますね。では、歯を磨いてまいります」
「あらそうなの。でもアーモンド・オレ、まだ残ってるわよ」
あうう、どこまでも自由な人なのですよね、この人は。母に気取られないよう、ひそかに私は涙をぬぐうのでした。
◇
以前よりは学校もずいぶんと楽しい場所になりました。仲のいいお友達もできましたし。でも気を引き締めていないと、ついつい暴走してしまうわけで。
「レイテ沖海戦とは、昭和十九年十月二三日から二五日にかけてフィリピン及びフィリピン周辺海域で発生した、日本海軍と米海軍との間で交わされた一連の海戦の総称です。別名、比島沖海戦とも呼ばれるようですね」
私の目の前には、ふたりのお友達がいらっしゃいます。
泉こなたさんは瑠璃色の長い髪と、常にどこか遠くを眺めているかのような翠色の瞳がとても印象的な女の子。とにかく話題が豊富で、おもしろいお話もたくさんご存知ですね。ただ残念なことに、私にはよくわからない概念も含まれているのですけど。たとえば『萌え』とか。
柊つかささんは菫色のショートカットにリボンがよく似合う、とても可愛らしい印象を振りまく女の子です。泉さんには時々『天然』とからかわれることもありますが、そのふわふわとした人当たりのよさが実は最大の魅力なのではないか、と思いますね。
「直接的にはシブヤン海海戦、スリガオ海峡海戦、エンガノ岬沖海戦、サマール沖海戦の四つの海戦からなります」
おふたりは何も言わず、黙って私の話に耳を傾けてくれています。それをいいことに、私は少しばかりヒートアップしてしまいました。海戦の背景、推移、評価など、私はただ思いつくままに述べ立てていきます。
「というわけで、昭和十九年十月二五日をもって日本海軍の組織的抵抗は実質的に終焉した、と結論していいのではないでしょうか」
そう言い終えてからようやく、しまったと思いました。空気も読めないまま勢いにまかせ、ただ自分の知識をひけらかしてしまう。いつもこうやって周りを白けさせてしまうのでしょうね。いい加減、少しは私も学習しないといけない。
──しょせん、私はひとりぼっちですか。
そう思って私ががっくりと肩を落とした、まさにその時のことでした。
「まあそれはもっともだと思うんだけど、みゆき?」
ふふっ、といたずらな笑顔を浮かべながら現われたのは、つややかな菫色の長い髪を後ろで二つにまとめた、ちょっぴり気の強そうな少女でした。彼女は隣のクラスの学級委員で、柊つかささんの双子のお姉さん。ファーストネームはかがみ。ええ、柊かがみさん。
「はい、何でしょうか」
私は彼女の目を真正面から見据えると、次の言葉を待ちます。
「もしあの時、サマール島沖で第一遊撃部隊が引き返さなかったとしたら、戦いの行方はどうなっていたと思う?」
「え?」
予想外の問いかけに、私は戸惑いを隠し切れませんでした。
まったく、なんということでしょう。私の話をきちんと把握して、そのうえ想像を超える質問を返してくれる同い年の女の子が、まさかこの世にいようとは。さすがは高等学校というべきでしょうか。
どうやら少しばかり甘く見ていたようですね、今の今まで。
「そうですね──」
一呼吸置いて時間を稼ぎつつ、私は答えをはじき出すために頭をフル回転させます。
「当時サマール沖に展開していたのは、米第七艦隊の旧式戦艦群と護衛部隊ですね。米軍側は他に第三艦隊として一三隻の正規空母と六隻の新式戦艦を参加させていましたが、これらは小沢治三郎中将の指揮する日本第三艦隊に誘引され、この時点での戦闘加入は不可能でした。ですから、おそらくは第一遊撃部隊とレイテ湾突入を阻止しようとする第七艦隊との間で、海戦史上最後の戦艦同士の戦闘が発生する、と予測されます」
「レイテ湾突入の可能性についてはどう?」
すかさず、かがみさんが追求してきます。
──久しぶりに味わうこの高揚感。
「どうでしょうか。第七艦隊の弾薬については前夜の第二、第三遊撃部隊との戦闘でほぼ射耗していたという説、一会戦分くらいは残っていた説など諸説ありますし。一方の第一遊撃部隊の将兵達も連日の戦闘で疲れ切っていたはずなので、こればかりは実際に戦ってみないとわからないですね」
「じゃあ仮に突入できた、としてだけど。確かあの時、ダグラス・マッカーサー陸軍大将は
第七艦隊の旗艦、軽巡洋艦『ナッシュビル』に乗って、全般指揮を執っていたはずよね」
「ええ。すでに上陸していたという説もありますが、乗っていた可能性も否定はできません」
──それはまるで打てば響くかのようで。
「もし戦闘に巻き込まれてしまった、としたら」
「命を落とすことになっていたかもしれませんね、確かに」
彼女の意図をはかりかねながらも、私はそう答えました。
「そこでマッカーサーが戦死してしまったら、その後歴史はどう転換したのかな。ぜひ、みゆきの意見を聞いてみたいんだけど」
「そうですね。歴史にIFは無いと言いますが、なかなか興味深いテーマですね、それは」
「でしょ。きっとみゆきなら話に乗ってくれると思った」
ニコニコと素敵な笑顔を浮かべながら、かがみさんは自分の鞄を開けると、そこから何かを取り出しました。
「そんなみゆきには、ぜひこの本をお勧めするわ」
「これは?」
「ぶっちゃけ架空戦記モノの小説なんだけどね。ただし、そのあたりに転がってる妖しげなヤツとは一味違うのよ」
「架空戦記、ですか」
あの、せっかくのところ申し訳ないのですが、その手のトンデモ本はちょっと……。
「まあまあ、そんな微妙な顔しないで。しばらく貸しておくからさ。だまされたと思って読んでみて。お願い」
「……わかりました。かがみさんがそこまでおっしゃるのでしたら、喜んで」
白いビニール袋に包まれたその本を、私はまるで百カラットのダイヤモンドでも取り扱うようなつもりで、かがみさんから受け取りました。
「ねえ、かがみぃー。いい加減に歴史の事から話題移さない? なんかすっごい疎外感があるんですけど」
それまで完璧に背景と化していた泉さんが、ようやく会話に加わってきました。
「ひひひ。たまにはアニメの話についていけない一般人の気分を思い知れ」
「あのぅ、私も何のことだかさっぱりわかんないんだけど~」
冷や汗を流しながら、つかささんも必死にも訴えています。
「ああもう、しょうがないわね──」
そんなやり取りを小耳にはさみながら、私はさきほどかがみさんにお借りした、白いビニール袋の中身を確認してみました。そこには少々くたびれた感のある、紺色の文庫本が三冊入っています。周りの誰にも気づかれないように、私はそのうちの一冊をそっと手に取りました。いかにもそれらしい表紙に、表題が漢字で二文字。
「『征途』、ですか」
仕方がありませんね。帰りの電車で読んでみることにしましょう。
──何かが、始まろうとしていました。
◇
全国一億三千万人の架空戦記ファンの皆様、本当に申し訳ありません。
正直、このジャンルを軽く見ていたことを、深く懺悔いたします。
今までの私の認識では、トンデモ兵器で日本が勝利してしまうとか、後世世界がどうしたとか、そのようなかなり妖しげなエンターテイメント小説、というモノでした。でも今回、かがみさんからお借りした本は、そうした私の思い込みを根底からひっくり返すものだったのです。うーん、これは少しばかり認識を改めないといけませんね。
かがみさんが私に貸してくれた珠玉の三冊。それは、ひょっとしたらありえたかも知れない、もうひとつの日本の物語なのでした。
第二次世界大戦の末期。
史実とは異なるレイテ沖海戦の日本海軍の局所的勝利により、米軍は甚大な損害を受けてしまいます。これにより日本侵攻作戦のスケジュールは大幅に狂い、結果的にソ連の北海道上陸
という事態を招きます。このため以後の日本は、分断国家としての歴史を歩むことになってしまうのです。また同時にそれは、ある一組の兄弟の仲を引き裂くことにもなってしまいました。この物語は兄弟の数奇な運命をを軸に、展開していくことになります。
さて、この世界の日本の戦後史は、ある意味とてもドラマチックです。朝鮮戦争と呼応して発生する北海道戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、そして統一戦争。これらを通じて日本の国際的な立場は大幅に向上していきます。
ただし、少なからぬ犠牲と引き換えに。
そして兄弟たちもまた、これらの戦いに否応なしに巻き込まれていくのです。『見栄と諧謔』という武器を片手に、黙々と死地におもむく人たちの姿はあまりにも魅力的で、それ故にとても哀しい。独特の乾いた文体も、それを一層際立たせているような気がします。
主人公の兄弟たちはもちろんですが、彼らと共に歴史に翻弄されていく脇役達も、それぞれに存在感を発揮しています。
たとえば、戦車将校の福田定一。
現実世界では作家『司馬遼太郎』として高名な方ですが、この物語では北海道戦争の開戦と共に応召し、軍人として半生を過ごすことになります。常に『何のための戦いだ。何のための勝利だ』と自問しつつ、しかしその優秀な頭脳と決断力で、しばしば劣勢をはね返し自軍を勝利に導いていきます。ですがその活躍ゆえに反戦派からは目の敵にされ、あまりに政治的な存在になってしまったために、味方であるはずの自衛隊からも疎まれ、ついには放逐されてしまうという悲劇的結末を迎えます。
そんな救われないエピソードが、この物語には満載されているのです。
もちろん、首を傾げたくなるような部分がないわけではありません。たとえば、あまりにも強すぎる『大和』級戦艦とか。まあ基本がエンターテイメント小説ということを考えれば、仕方がないことかもしれませんね。
ただ、もうひとりの主人公とでも呼ぶべき戦艦「大和」または護衛艦<やまと>は、そのような欠点を割り引いても充分な魅力にあふれていています。第二次世界大戦を生き残り、時代遅れの存在と蔑まれ、ついにはイージス艦として生まれ変わり、幾多の戦争を戦い抜いていくその姿には感動すら覚えます。もし彼女に意識が宿ったとしたら、はたしてどのような感想を述べることでしょうか。
ぜひとも聞いてみたい、と思うのです。
なぜなら私は、この物語の<やまと>と、共に戦う人たちにすっかり魅せられてしまったから。
たとえば目をつぶると、こんな光景が浮かんできますね──。
そこは北海道稚内沖を驀進する海上保安庁海上警備隊・超甲型警備艦<やまと>の昼戦艦橋で。
眼前にはソ連の義勇艦隊と『北日本』の赤衛艦隊が展開しています。
それに目がけて<やまと>の十八インチ主砲が六年ぶりに火を噴く。
巨大な炎と轟音、そして黒煙が上甲板で炸裂し、それから一瞬遅れて押し寄せてきた濃密な硝煙の匂いに襲われ、思わずむせ返りそうになります。そしてそのあまりにも壮絶な光景に何事かを感じてしまい、つい私は大声で叫んでしまうのです。
「四六サンチ!」
それを聞いた艦橋の人々が私に笑みを向けてきます。でもそれは決して冷笑とかの類ではなく、たとえて言えば、大事な玩具を友達に見せびらかした子どものような笑い。
そして艦長の猪口敏平一等海上保安正が、私のほうへ振り返るとこうおっしゃるのです。
「我らが倶楽部へようこそ、高良みゆき」
なんて──。
そんな風に考えただけで、なんだか胸がドキドキします。
あ、でもひょっとすると、少しばかりヘンな娘ですね、私。
いえいえ、少しどころではないですね。
かなり、かなり恥ずかしい──かも。
あまり外では妄想しないように、気をつけなければいけませんね……。
──それはとても甘やかな、煉獄からの召還状。
◇
日曜日の朝、かがみさんと糟日部の駅のホームで待ち合わせをしました。
「ごめんね、わざわざ日曜にこんなところまで呼び出しちゃって」
「いえ、私はかまいませんよ。ここなら私たちはどちらも定期で来れますから、交通費の心配もしなくてすみますし」
「いやー、そう言ってもらえると助かるわ。実をいうと今月、結構ピンチだったのよね」
そう言うと、かがみさんはどこか照れくさそうな笑みを浮かべるのでした。
私たちは駅を出て、駅前のロータリーの歩道を並んで歩きます。
春の朝日が意外なほどまぶしいです。
さわやかな涼風が私の背中を後押しします。
お休みのせいか、人通りや自動車もとても少なくて、まるでこの世界が、私たちのためだけに存在しているかのような気がしてきます。そういえば、普段通学に使うこの駅ですが、あまり周りを散策したことはないですね。せいぜい近所のマクドナルドに、みなさんと立ち寄るくらいでしょうか。
まもなく私たちは通りを外れ、狭い路地裏を縫うように進んでいきます。残念なことに陽光の恩恵は、どうやら路地裏までは及んでいないようでした。辺りには微かに腐臭が漂っています。それどころか空気自体、ほのかによどんでいるような気がします。さきほどまで歩いていた駅前とのあまりの雰囲気の違いに、私はすっかり戸惑ってしまいました。
「こんなところは初めて来ましたが、とても興味深いですね」
すると、かがみさんがフォローするように口を開きます。
「実は私もついこの間、こなたに教えてもらったばっかりなの。あいつ、普段は閉じこもりのクセに、妙に情報通なのよね。まあ外見はちょっとヤバいけど、中は結構感じのいい店だから、みゆきもきっと気に入ると思うな」
「そうなんですか。それはとても楽しみです」
やがて、かがみさんが立ち止まったのは、今にも壁が落ちそうな三階建ての雑居ビルの前。目の前には長年の風雨にさらされ、すっかりくすんでいる木製のドア。そこには木彫りの『OPEN』と書かれた札が無造作にかけられています。ひょっとしてお店の名前なのでしょうか、ドアのそばに小さく『地球の緑の丘』と書かれた、真ちゅう製のプレートがはめ込められていました。
かがみさんがドアを開けると、カランコロンと涼やかな鈴が鳴ります。
「さ、どうぞ」
かがみさんの後に続いて、私も中に入ります。
「失礼します」
ほの暗い室内には、微かにコーヒーの香りが漂っています。
静かな、それでいて心地よい音楽が耳をくすぐります。
壁には古ぼけた無数のポスターが貼られていて。
二人がけの席がみっつと、四人がけの小さなカウンターがあるだけ。
なにかしら人生を感じさせる初老のマスターが、無言の会釈で私たちを迎えてくれます。
それはとても小さくて、どこか退廃的で、まるで時間が静止したような喫茶店。
足を踏み入れて三歩と行かないうちに、私はこのお店のことがすっかり気に入ってしまったのでした。
──そして私は世界の境界を踏み越える。
◇
「ね、なかなかいい感じでしょ」
ちらりと、かがみさんが笑みを浮かべます。
「ここなら、時間を気にせず思いっきり話せると思うんだ」
「でも大丈夫なんでしょうか。あまり席もないようですし。こういうお店には、意外に常連さんなどいらっしゃるのではありませんか?」
「あはは、へーきへーき。その点は問題なし。実はここ、そんなに繁盛してないし。マックと違ってコーヒー一杯で何時間粘ってもOKだから」
「そういうものなのですか」
「そういうものなのよ」
私たちは、二人がけの席のひとつに腰を下ろします。そうなると必然的に私は、かがみさんの笑顔を真正面から見据える形になるわけで。
「じゃあ、そろそろ本題行くね」
「はい」
軽い同意のうなずきで私は答えます。
「今日わざわざ来てもらったのは、みゆきと少し遊んでみようと思ったんだけど」
「遊び、ですか」
「ところで、この間貸した本はどうだった?」
「とても、とてもおもしろかったです。ええ」
「そういう話し相手ができる人をずっと探してたわけよ、私は」
「そうだったんですか」
思わず頬が緩んでしまいます。それはあなただけではないのですよ。
「せっかく見つけた話し相手だから思いっきり語りたいところなんだけど、でも実際問題として、こなたやつかさがいるとちょっとねー。だから、この店ならいいかなと思って」
「でも、いいんでしょうか、私たちだけで。なんだかとても罪悪感を感じるのですが」
「あー、いいのいいの。あの子達はあとでいくらでもフォローできるし。今はただ、二人だけの時間を楽しみましょ。ね」
「二人だけの時間──ええ、それもいいかもしれません」
──この崩れかけた世界の片隅で。
「ではどこから始めましょうか」
「何かとっかかりが必要よね。たとえば──そうだな。日露戦争あたりからはじめよっか」
「わかりました、日露戦争ですね」
私の中のモードが、かちりと音を立てて切り替わります。
すでに、かがみさんの顔からも笑顔はきれいさっぱり消え去り、代わりに彼女の藍色の瞳には、学求の輩だけに許される色が浮かんでいたのです。私は視線をはずすと、両手でそっと胸を押さえ、ただ『信頼』の二文字を念じました。
きっと、大丈夫。
きっと、かがみさんが相手なら、どれほど暴走したとしても大丈夫。
私は再び顔を上げると、かがみさんの目を真正面から見据え、口火を切りました。
「あの戦争のターニングポイントというと、黄海海戦、旅順攻囲戦、対馬沖海戦、奉天会戦あたりでしょうか」
「その中で、なんといっても一番ヤバかったのは奉天よね」
「ええ。乃木将軍の第三軍の戦闘加入が二日遅ければ、日本陸軍は露陸軍を支えきることはできなかった。また第三軍の実態が明らかになっていれば、やはり同様の結果になって
いたでしょう。当時の露軍は、旅順を陥落させた第三軍を明らかに過大評価していましたし」
「黄海海戦については?」
「そうですね──」
ああ。ここで私は、ある事実に気づいてしまいました。
「あの、先日から、なんだか私が語ってばかり。たまには、かがみさんのご意見も伺ってみたいのですが」
「え、私? うーん、そうか、そう来るか」
私の指摘に、かがみさんは思わず苦笑い。
「あの海戦において、第一艦隊の運動は明らかに錯誤よね。旅順艦隊の意図を誤解してしまったためかな。彼らはあくまでウラジオストックに脱出するという、ただその一点において積極的だったから」
「それで?」と、私はかがみさんを促します。
「ところが、第一艦隊は相手に決戦の意図ありと誤読しちゃったから、ただ旅順艦隊の進路を妨害しようと、その鼻先を北東から南西へと横切ってしまった。もし旅順艦隊の意図がひたすらウラジオストックに向かうと理解していれば、他にいくらでも方法はあったはず。万一、露海軍の戦艦『レトウィザン』が浸水しなければ、あるいは──」
かがみさんがここで言葉を切り、軽く首を傾げて私を見つめます。
どうやら、続きを、ということみたいですね。
「──あるいは偶然の一弾が旅順艦隊の司令部を直撃しなければ、露艦隊を取り逃がし、ひいては戦争そのものを失う結果になっていた可能性が極めて高いでしょうね」
これでよろしいですか? 私は、貴女の期待に答えられていますか?
「いいわ、すごくいい」
我が意を得たりとばかりに、かがみさんは何度もうなずきます。
「それでこそ、私がここまでひっぱってきた甲斐があるというものよ」
かがみさんは両手を顔の前で拝むようにあわせると、まばゆいばかりの笑顔を浮かべました。でもそれは決して冷笑とかの類ではなく、たとえて言えば、大事な玩具を友達に見せびらかした子どものような笑い。
そして彼女の唇は、私を金縛りにする呪文を紡ぎだすのです。
「我等が倶楽部へようこそ、高良みゆき」
もはや身じろぐことすら私には許されませんでした。
ひょっとしたらこの胸のドキドキが、かがみさんに聞こえてしまうのではないか。
ただそれだけが心配でした。
──私が待ち望んでいたのは、おそらく貴女のこと。
◇
「やったぁ!」
嬉々として網に手を入れ、慎重にトンボを取り出すと、私はみなさんにもよく見えるように高々と獲物を掲げました。
「ほらみて、つかまえたよ。こーんなにおおきなトンボ!」
「おお、さすがはみゆき。すごい、さいこーだよ」
幼いかがみさんが、まるで我が事のように喜んでくれます。
「きれいだね」と私。
「うん、とってもきれい」と幼いかがみさん。
とても、とても幸せな気分でした。
(Fin)
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