<一日目 一七時〇五分>
東京からヘルシンキまでの飛行機はエアバスだったが、ヘルシンキからマドリッドまでは聞いたことのない会社のものだった。せいぜい百人程度しか乗れない、どちらかというと中型機の部類である。シートにしてもビジネスクラスとは名ばかり。エアバスはエコノミーシートに比べ五十パーセント増くらいの大きさのものだったのに対し、こちらのそれは見たところまるっきり区別がつかない。
唯一エコノミーとビジネスを区別する仕切りも、なんとキャビンアテンダントの人たちが手で移動しているありさまだ。なるほどこれでは初めからシートの区別などできるはずもない。まあ考えようによっては、予約状況に柔軟に対応できるシステム、と言えないこともない……かな。
そういえばこの便に乗り組むときに、このツアーの添乗員さんに初めて聞いたのだが、この飛行機のエコノミーシートはなんと自由席なのだという。そのためだろうか、何人かのエコノミーの乗客が席を移動させられる羽目に陥ったようだった。たまたましきりのすぐ後ろに座っていた、まるで生まれる前からボブカットで過ごしてきたような白人の少女が、キャビンアテンダントさんの案内でさらに後部の座席に移動させられていくのが目に入った。すると彼女もその気配に気づいたのか、こちらに物憂げな視線を投げかけてくる。
別にこちらの責任というわけではないのだが、ちょっとだけ申し訳ない気分になってしまい、つい私は軽く会釈をする。
一瞬の逡巡ののち、注意深く見つめていないと気づかないほどのわずかな微笑で、彼女も答えてくれた。いかにも北欧生まれという感じのシルバープラチナが、ほんの少しだけ揺れる。ありえないことだが、まるでガラス細工を重ねた時のような硬質な音が聞こえたような気がした。
「なんというスレンダー。あのすんなりと伸びた細い手足なんて、まるでフィギュアだネー」
私の視線の先を追いかけていたのか、こなたがそんな感想をもらす。いつもならば『またそんなオタクネタを』とツッコむところなのだが、今回ばかりはこなたの意見に全面的に同意するしかない。それほどまでに彼女の存在は異彩を放っていた。
そんな出来事があった後、ようやく自分たちの席を確保すると、さっそくこなたが私に声をかけてきた。
「ねえ、かがみ。ちょっといいかな」
「何よ?」
「ほら、見てよあれ。なんかこう、いろいろと問題ありそうな気がするんだけど」
何やら不安げなこなたが指差すほうに目をやると、なんと天井付近のパネルに、無造作にガムテープが幾重にも張り重ねられていた。とっさにツッコみたくなる気分をどうにか押さえ込む。ここで私まで不安な表情を浮かべては、こなたとふたりでパニックに陥りそうだ。内心の動揺を悟られないように、かなり意識して間延びした口調で答える。
「ふうん、これがヨーロッパ流ってやつかなぁ」
「あ、ああ、そういうもんかも……ね」
納得いかねー、という表情を浮かべながら、こなたが相づちを打つ。ちょっと、お願いだからそんな顔しないでよ。私だって心の底からそう思ってるんだから。
懐のパスポートケースにこっそり忍ばせた我が神社謹製の厄除守りにすがりたくなるような気分を抱えた私たちを乗せ、この可愛くも妖しげな飛行機は一路マドリッド・バラハス空港へ向けて、ヘルシンキ・ヴァンター空港を定刻より十分遅れで離陸したのだった。
飛び立って一時間ほどして機内食が運ばれてきた。
ちょっと待て。
東京からヘルシンキまでの間に昼食と夕食は済ませたのに、この上さらに食べろと? なんか身体に致命的な影響をおよぼしそうな気がするんだが。特にウエストの周辺に。
旅行前にネットで仕入れた豆知識だが、フィンエアーの機内食、特にビジネスクラスのそれは、世界の航空会社でも間違いなくトップクラスの味なのだという。すでに最初の昼食でそれは確信に変わったが、今回運ばれてきたそれもまた、その評判を裏切らないものだった。狭苦しいトレイに並べきれないほどの入れ物。さらにその一品ごとの工夫っぷりも常軌を逸している。たとえばこのサーモンのムニエルなんかどうだろう。そもそもナイフなど不要なくらいの柔らかさだ。
「こ、これは……」
横でこなたがうめき声を上げている。
「これだけ柔らかい仕上がりなのに、それでいて運ばれてきた振動で身崩れしてない。しかもちゃんと風味は身の中に閉じ込められてる。絶妙の火加減でコントロールされていなければこんな風には作れないね」
私は、私は、いったいどうしたら……いい?
そんな疑問を感じつつも、食欲に負けてしっかり手と口が動いているという悲しい現実に、少しだけ世をはかなみそうになった。
こら、こなたっ。ニヤニヤ笑いながら私のことみつめるんじゃない。あんたの言いたいことくらいお見通しなんだからね!
食事を終えてふと窓の外に目を移すと、そこには雄大としか表現できない光景が広がっていた。眼下に広がる地形はバルト海から、いつのまにか欧州大陸にとって代わっていた。地平線近くに見える険しい山並みはおそらくアルプス山脈だろう。そして紺色の空に、どうにも場違いな黒っぽい空気がたなびいていることに私は気づいた。
これはひょっとして、煙?
さらに目をこらしてみると、煙の発生源が見えてきた。飛行機だ。大型の旅客機。それも一機だけではなく、何機も連なっている。それらのジェットエンジンが盛大に吐き出す排気煙のまっただ中に、私たちの旅客機は入り込んでいたのだ。いやそれどころか、煌々とライトを点灯させながらこちらに向かってくるヤツまでいる。
まさか飛行機用の十字路まで存在しているなんて。居心地の悪い何かが私の胸中でうごめく。眼前で展開されているこの光景こそ、世界中の富と血と汗と涙を貪欲に飲み込み繁栄する人類文明のひとコマ、とでもいうべきなのだろうか。思わず悪寒が走るのがわかった。はたしてこれは感動か、畏怖か、あるいは嫌悪か。私には判断がつかなかった。
その時だった。自分の右手に重みが加わっていることに気づいたのは。いつの間にか私の手の上に、こなたの右手が乗せられていたのだ。そして彼女が、そのエメラルドグリーンの瞳で、穴の開くほど私のことを見つめている。
「いや、なんか──掴まえてないと、どこかに飛んで行ってしまいそうだったから」
それだけ言うと、ぷいっと横を向いてしまう。
「ごめん。忘れて」
「う、うん」
軽くうなずく。自分でもその返事が最初の言葉と次の台詞、どちらに向けたものだったのかはよくわからない。あえていえば両方だろうか。ただ、こわばっていた何かが、あたかも春の雪解けのように溶けていくのだけは実感していた。
あまりにも気恥ずかしいので、感謝の言葉は胸にしまっておこう。そのかわり私は、こなたの手をそっと握り返すことにする。
マドリッド・バラハス空港に着陸するまで、私たちの手が離れることはなかった。
◇
<同日 二〇時四〇分>
バラハス空港からホテルまでは、ツアーを主催する旅行会社が送迎バスをチャーターしてくれる……はずだった。ところが、である。
「いや~。どうもすいません。いろいろと手違いがありまして。実はチャーターしたバス会社の運転手の所属している組合がストライキに突入してしまいまして……」
ツアコン(ツアーコンダクター)の仁科さんが、ツアーに参加している人たちに平謝りしている。事情が飲み込めずおろおろしている人、怒りをあらわにする人、旅行会社の手落ちをなじる人など、さまざまな人間模様を観察させられることになった。
「ツアコンの人もいろいろと大変だね」
わずかに同情の色を浮かべながら、こなたが感想を述べる。
「きっとこれが、噂に聞く『山猫スト』ってやつでしょうね。抜き打ちでストをやるから、いろいろと影響も大きいらしいわ」
肩をすくめながら私は答えた。
「それで、私たちはこれからどうすれば?」
ひとしきりツアー客が文句を言い終わるころを見計らって、私は仁科さんに善後策の発表をうながした。
「それはですね、いちおうエアポートタクシーに分乗していただいて、各自ホテルに移動ということで」
えー、と再び不満の声がツアー客の中からあがる。それに構わず私は話を続けた。
「わかりました。ではタクシーの利用手順を教えていただけますか?」
「あ、はい。ではこれからタクシー乗り場にみなさんをご案内いたしますので、お話は道々ということで……」
要するに、3~4人のグループに分かれてホテルまでタクシーで分乗する。タクシー代は旅行会社持ち。行き先は乗り場でツアコンの人がタクシーの運転手さんに指示してくれる。おかげで我々は黙っていても迷わずホテルまで送り届けられる、というわけだ。観光地としても名高いマドリッドであるが、タクシーの運転手さんまで、もれなく外国語が堪能というわけではないらしい。このあたりの事情は多分、東京も似たようなものだろう。もっとも英会話も怪しい私たちにとっては、たとえ相手が英語を理解してくれたとしても不安だらけなのだけど。
タクシー乗り場に到着すると、客待ちをしてるタクシーにはそろいもそろって〝H〟のエンブレムがついていた。一瞬ホンダかと思ったが、よく見ると〝HYUNDAI〟と書かれている。車のことはあまり詳しくないが、確か韓国のメーカーだったろうか。
「ではホテルまでの短い間ですが、よろしくお願いしますね」
私たちとタクシーに乗ることになったのは朝永さんという姉妹だった。おっとりタイプで、どこかつかさを思い起こさせる姉のみらさんは二十歳の女子大生。一方で、元気が服を着て歩いている感じの妹のなぎさちゃんは生意気盛りの中学生。かなり年が離れているけど、けっこう仲はよさそうだ。まあそもそも、仲のいい姉妹でなければ二人で旅行なんて普通はしないよね。もし私がまつり姉さんに旅行に誘われたとしたら……多分あれこれと理由をつけて断るだろうな。いやそれ以前に、そんな事態は絶対に起こりえないだろうけど。
「うちのお姉ちゃんはね、なんと慶央大学の法学部なんだよー。凄いでしょ?」
自慢の姉なのだろう。鼻高々という感じで、なぎさちゃんが同意を求めてくる。
「へええ、慶央なんですか。それは凄いですね。確か偏差値70くらいでしたっけ?」
「ううん、それは政治学科の方。私の通ってる法律学科はもう少し低いかな」
「法律学科ということは、将来はやはり法曹関係に?」
そう私が水を向けると、みらさんはどこか寂しそうな笑顔を浮かべた。
「うーん、実をいうと司法試験は諦めてしまったの。……法科大学院って、聞いたことあるかな」
「ええ。法曹に必要な知識を学ぶための専門の大学院、ですよね」
「そうそう。大学に加えて院に三年も通わなければならなくて、しかも合格率は三十パーセント程度なの。正直言って、とてもそんな冒険はできないわ」
「そうなんですか……」
自分の目指す道のりの険しさを、改めて思い知らされたような気がした。
「それで今は行政書士を狙ってるの。司法試験ほどじゃないけど、ここ何年かは合格率一ケタ台だから、油断はできないのよ」
と、そこへすかさず、なぎさちゃんがフォローをいれてくる。
「あたしの私立中学の学費を出すために、お姉ちゃんは大学院を諦めたの。頭が悪いわけじゃないんだから。そこんとこ、よ・ろ・し・く」
「うん、わかってるよ。慶央に入れるだけでも大変なことだと思うから」
決してお世辞のつもりではない。心底私はそう思っていた。
行政書士のことをもっと詳しく聞きたくて口を開こうとしたのだが、それより一瞬早く、運転手さんが話に加わってきた。
『あんた方、中国の人かね? それとも韓国人?』
癖の強い英語で、最初は何を言っているのか聞き取れなかった。
『いいえ。私たちは全員日本人です』
そんな問いに対し、それはもう嫌味なくらい見事な発音のクイーンズイングリッシュで、さらりとみらさんが答える。
『おおっ、そりゃいいな。日本人なら大歓迎だぜ。フジヤマ、ゲイシャ、スシ、トヨタにソニーときたもんだ』
急に饒舌になった運転手さんに、みらさんと私はただ失笑するしかなかった。
「何このおっさん。急にべらべら喋りだして、めっちゃキモいっての」
不信そうな目を、なぎさちゃんが向ける。いや、さすがにそれは運転手さんが気の毒だろう。
そんな友好的な空気が流れるタクシーの中、こなただけが最後まで不気味な沈黙を守っていた。
三十分ほどでタクシーは無事ホテルに到着することができた。すっかり仲よくなったタクシーの運転手さんが、後部トランクから私たちの荷物を根こそぎ取り出してくれたので、ずいぶんと助かった。ちなみに彼はモロッコから出稼ぎに来ているのだという。中東ほどではないが、かつてキリスト教とイスラム教による文明の衝突が、それこそ幾度となく繰り返されたお国柄を象徴しているように思われた。
「明日は七時ちょうどに、一階のラウンジで朝食です。ビュッフェ方式ですので、お好みでどうぞ。ただし九時前にはロビーに集合です。長旅でお疲れのこととは思いますが、どうか寝坊などなされませんよう、お願いいたします」
仁科さんが今日の最後の仕事とばかりに大声を張り上げている。日本を出発してから、かれこれ十五時間あまり。ビジネスクラスで優遇されていたとはいえ、この長時間の移動はさすがに堪えた。一刻も早くシャワーでも浴びて、ベッドで身体を思い切り伸ばしたいものだ。
私とこなたのスーツケースとキャリーバッグ、合わせて四つを指定されたカートに積み上げる。いちおう荷造りには気を配ったつもりだが、丁重に扱ってもバチは当たるまい。ビジネスクラスでは三十キロまでの手荷物が持ち込めるそうだが、そんな大荷物になってしまっては身動きひとつ取れないに違いない。幸い今回のツアーでは正装は不要とのことだったのでまだ助かるが、万一ドレスのひとつでも持ち歩こうものなら、おそらくは大変な苦労を強いられることになっただろう。それでなくても八日分の着替え、寝巻き、ケアセットなどの小物類に至るまでを詰め込んだ結果、荷物は軽く十キロを越えてしまっているのだ。まあ、ここでもロビーから部屋までは、インド系と思しきポーターさんに荷物を運んでもらったし、ずいぶんと楽をさせてもらってるけどね。
「こなた、明日に備えて今日は早めに寝ましょ。先にお風呂入ってよ」
さきほどから、どうも様子がおかしい。返事もしてこない。
「こなた?」
顔をのぞきこむ。ひょっとして具合でも悪いのか?
「どうしたのよ」
「……別に」
「ふーん……」
顔色は別に悪くないみたい。けど、なんだろう、この暗さは。……なんだかよくわからんが、これはどうも精神的なものみたいね。と、なれば、だ。
「ね、いっしょにお風呂、入ろっか」
「え、いいの? ほんとに?」
とたんに、こなたの顔がぱあっと輝く。ほっんと、わかりやすいヤツだな。
「もちろん」
「じゃあ、私、湯船にお湯を張ってくるから」
そういってバスルームに向かいかけたが、そこで振り返って一言。
「お風呂のあとはベッドで一戦交えるわけですね、わかります」
「あんま調子に乗ってると痛い目見るぞ」
「うひゃあ、かがみ様がお怒りになった。天罰が下る~」
「いったい何様だ私はっ。山神さまかなんかかっ!」
「んー。まあ、そんなとこー」
先ほどまでの不機嫌さはどこへやら。すっかりいつもの泉こなただった。
はたして先ほどまでの態度は、単なる子どもじみた独占欲か、それとももっと別の感情によるものなのか。
まあ、アレだ。あまり深く追求しないことにしよう。今日のところは。
(つづく)
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