決して忘れることはないだろう。
私が初めてクリスマスを憎んだ日。
こなたと二人で血の涙を流した、あの高校三年のイブの夜のことを。
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クリスマス・ツアー
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ようやく東の地平線が白み始めたとはいえ、今なお暗闇が支配する空。
街路灯の光を浴び、まるで純白のカーペットを敷き詰めたようにきらめく雪原。
そして見渡す限り広がっている、深い緑色に染められた針葉樹の森。
ピーンと張り詰めた冷気が、まるで遊ぶかのように私の頬をなでていく。
ひょっとすると吐く息まで凍ってしまうのではないか、という錯覚すら覚える。
およそ何から何までが日本とは違っていて。
まさにここは異国──というより、むしろ異世界という言葉がふさわしい。
「おーい、かがみぃ!」
バスを降りた誰もが寒さで身体を縮こませている。もちろん私も例外じゃない。そんな異世界の中でただひとりだけ、子どものようにはしゃいでいるこなた。氷点下二七度の寒波も、こいつの元気を削ぐことはできないようだ。今日だけは『インドア派のオタク』のレッテルも返上、というところだろうか。青で統一された防寒着とマフラーで、すっかり着膨れしてることなど微塵も感じさせない軽やかな動きが、見ていてとても心地いい。そんな格好では凍傷になると指摘され、あわてて現地で買い込んだ茶色の毛皮の帽子だけが、残念ながらややミスマッチ。
──そして私は、ひそかにため息をつくのだ。周りの誰にも気づかれないように。
日付は十二月二四日。
時刻は午前十時過ぎ。
場所は東経二五度四四分、北緯六六度三二分。
成田から飛行機で九時間で、ヘルシンキ・ヴァンター空港へ。
そこからリムジンバスで四十分あまりで、ヘルシンキ中央駅へ。
今度は夜行列車に乗り換えてさらに十三時間で、北の州都ロバニエミへ。
市内のホテルに大きな荷物を預けて、朝食を取ってから徒歩で市の中心街へ。
そして路線バスに乗りこんで、北に三十分ほど行ったところ。
そこでは、かのサンタクロースに会うことができる、のだという。
ネットや書物で入手した情報でイメージはしていたつもりだったけど、こうしてこの地に立ってみると、ああなるほどと納得してしまう。これなら、ここならば、たとえ人外の存在がいたとしても何の不思議もない。そこは二一世紀を迎えてもなお、頑ななまでに人の手を拒み続ける極北の世界。あの日から丸三年──大学三年生になった私とこなたが訪れたのは、まさにこの世の果てと呼ぶにふさわしい場所なのだった。
§
入口で入場チケットを買うときに、こなたが「子ども料金でいけるよネ?」なんてつぶやいていたが、そこは軽くスルーしておく。
門をくぐると、そこには田舎の小学校のグラウンドくらいの広場があった。
その広場を取り囲むように、いくつかの積み木細工のような木造建築が配置されている。
そしてその中のひときわ高い建物の屋根から、いったいどのような技によるものなのであろうか、一本のきらめくケーブルが広場の空を分断するかのように横切っていた。
私はどうやらそれが、いわゆる『北極圏の境界線』らしいと見当をつける。
北極圏。
それは真冬に太陽が昇ることがない、そして真夏に太陽が沈むことがない、北緯六六度三三分以北の地域。ここはその入り口なのだ。
「ねえ、写真撮ってよ」
いつものニマニマ顔を浮かべながら、こなたがその『北極圏の境界線』の真下に立っている。得意げに決めているポーズは、ウルトラマンの真似だっけ?
「はいはい」
そこを私が、手持ちのデジカメでパチリと一枚。
「あんがと。じゃあ次、かがみの番ね」
「ええっ。わた、私は別にいいってば」
いちおう両手を振って拒絶の意思を示してみるが、もちろん素直に言うことを聞くような奴じゃない。
「まあまあ、こういうのはお約束だから」
両手首を掴まれて、なすすべもなくずるずると引っ張られてしまう。わかってる。抵抗は無意味だ。
「はい、一たす一は?」
きっとまた、微妙な表情しているんだろうな。
そんな実にしまらない感じで、私は恐る恐る北極圏へ足を踏み入れた。
§
えーっと、ざっと三百人くらいはいるよね、これ。
「こんなところでまた行列かよ…」
半ば無意識のうちに、今日何度目かのため息をつく。
「いやいや。こういうワクワクドキドキのつまった行列なら、私はいつでも大歓迎ですヨ」
「まったくこういう時はほんと、とことんポジティブだよな」
そう、こいつはそういう奴なのだ。髪の毛がショートになったり、身体のラインがより女性らしくなったりしているけど、本質は良くも悪くもあの頃のまま。その事実に気づいた私は、改めて好意的な驚きを覚えていた。
しばらく順番待ちの行列に身をゆだねながら、頭の中で記憶を検索する。確か大使館で読んだ資料によれば、この行列の先にあるサンタクロースの部屋でようやくサンタクロースに会うことができる。はるか遠いコルヴァトゥントゥリ山から毎日やってくるかの人は言語が堪能で、なんと片言ながら日本語も話せるとか。
『次の方、どうぞ』
ほどなく私たちの面会の順番がやってきた。癖の強い英語に誘われるように、私たちはサンタクロースの部屋に身体を滑り込ませた。
「「おおっ」」
打ち合わせをしたわけでもないのに、私たちはほぼ同時に声を上げた。
初めて出会う本場のサンタクロースは、身長二メートルはあろうかという巨人だった。ついでにウエストも二メートルくらいありそうなのだが、この場合は恰幅がよい、と褒めるべきなのだろうか、なんとも判断に迷うところだ。雰囲気に飲まれてしまったのか、こなたは身体を硬くして私の腕にしがみつき、離れようとしない。
「こんにちは、カワイイお嬢さんたち。ご兄弟ですか?」
妖しげな発音ではあったけど、彼は日本語で私たちのことを歓迎してくれた。部屋に入ってからというもの、緊張しっぱなしのこなたの代わりに私が答える。
「はい、私たちは「恋人同士です」
「こなた…」
突然のリアクションに、私はこなたを凝視する。正気なの、あんた。
「そう伝えて。サンタクロースさんにもわかるように」
「でも…いいの?」
「お願い。サンタクロースさんにはウソつきたくないの」
「そう。うん、わかった」
頭の思考回路を英語に切り替えると、私は何かの呪文を唱えるように言葉を紡いだ。
『私たちは恋人同士です』
はたしてサンタクロースは少し驚いたようだったが、すぐに元の笑みに戻った。そして私の右手とこなたの左手を取ると、彼の大きな両手で包み込むようにしてから、おもむろに口を開いた。
『茨の道を歩む子羊たちに、より多くの祝福がありますように』
意味を理解した瞬間、全身の血液が逆流するのが感じられた。
──あなたに何がわかる。
『ありがとう。でも…』
余計なお世話です、と続きを言わずに済んだのは、私の手がこなたによって力強く握られたからだった。思わずこなたの方を振り返る。すると彼女は、そっと左右に首を動かして見せた。
「(だめだよ、かがみ)」
一秒で頭が冷えた。
そうとも、悪気などないのだ。むしろその間逆。彼は彼なりに、精一杯の好意を伝えてくれているだけなのだから。そんな人を責めるのはあまりに酷というものだろう。
もう、こなたったら。なんて空気を読める娘。
「ところでお嬢さんたち、サンタクロースと一緒に記念撮影などいかがデスカ?」
私たちのやり取りをニコニコしながら見ていたサンタクロースが、またもや妖しげな日本語で話しかけてきた。
「あ、はい、ぜひお願いします」
「では一枚三十ユーロいただきマス」
「は?」
なんとすばらしきかな商業主義。
§
併設されているレストランで、早目の昼食を取ることにした。
「へえぇ」
声が漏れるのを抑えられなかった。建物の慎ましやかさとは裏腹に、一歩中に踏み込んだそこは意外にもお洒落な雰囲気。だけども、初めて訪れた場所なのになぜか既視感を覚えてしまう。少しだけ考えてその正体に思い当たった。この内装、大学の見田キャンパスのカフェテリアの雰囲気にとてもよく似ているのだ。ひょっとしたら設計した人の中に、北欧かぶれの人でもいたのだろうか。
窓際の二人がけの席に陣取り、メニューを片手に料理をオーダーする。ここでも私が仕切り役だ。もっとも、こなたは英語が苦手だから仕方がないのだけど。
「さっきはごめん」
「なんのこと」
本当に思い当たることがないらしい。ひたすら首をひねるこなた。可愛い。
「ほら、サンタクロースの部屋で暴発しかけたことよ」
「ああ。いいっていいって。元はと言えば私が妙なことを言い出したからだし。気にすることないヨ」
「ありがと」
そして沈黙。
うう、気まずい。何か別の話を振らなきゃね。ええと…。
「今回」
「え」
「今回は、こなたがどうしてもサンタクロースに会いたいって言うから付き合うような形になったけど、実を言うと私も以前から興味はあったんだ」
「サンタクロースに?」
「違う。この国のことよ」
「へえ」
「確か国際法の講義の時だったと思うんだけど、たまたま時間が余って半ば雑談みたいな状態のときに出てきた話題なの。国際連盟の最後の仕事は何かって。
私だけじゃなく、ゼミの誰もが答えられなくて、しかたなく講師の先生に教えてもらった。
正解は『ソ連の除名』。そのきっかけになったのが、この国に対する侵略行為。
それは一九三九年、ナチス・ドイツの台頭で欧州は風雲急を告げていた頃のことよ。
バルト三国を併合したソ連は、次の目標をこの国に定めると、五十万人もの大軍を送り込んできた。
埼玉県の人口くらいしかいない相手によ。まったく大人気ないわよね。
当然、当時の国際社会は口々に非難したけど、でもどこの国も直接手助けはしようとしなかった。
だから一ヶ月と持たずにこの国は滅びる、世界の誰もがそう確信した。
…ああ、こんな話は退屈?」
「そんなことない。いいよ、続けて」
「うん。ありがと」
舌で唇をわずかに湿らせると、私は続けた。
──それは人類史の暗闇の、ほんの一幕。
「でもこの国の人々だけは決して諦めなかった。
みんなが力を合わせて、それこそ死に物狂いで抵抗した。
当然ソ連の味方をすると思われていた、国内の共産主義者までが銃を取ったらしいわ。
正規の兵隊が全滅して、料理兵がフライパン片手に戦ったなんていう話もあるんだって。
そんな雰囲気だったから、一ヶ月で終わると思われていた戦争は、
二ヶ月たっても、三ヶ月たっても終わらなかった。
そのうちに冬がやってきた。未曾有の寒波を引き連れて。
結局、ソ連軍は寒さで十万人以上の犠牲を出し、この戦争は終わった。
多くの犠牲を払いながらも、国の独立と民族の尊厳だけは守られた」
「そうだったんだ。私、全然知らなかったよ」
「この国はね、存在自体がマイノリティみたいなモノなの。
だからなんというか、つい自分の立場を重ねてしまうのよね。
理解できない、気持ち悪い、場合によってはただ少数だからという理由で迫害され、
差別される。
そんな人たちがこの世の中にはたくさんいる。
でもそんなだからって泣き寝入りしていたら、決して不幸から抜け出すことはできない。
ありとあらゆる手段を使って主張する、抵抗する、戦って勝ち取る。
そんなことを教えられたような気がするの。そして…」
私はここで一息ついた。こなたは何も言わず、次の言葉を待ってくれている。
「そして私は、そんな人たちと共に歩いていきたい」
うわ、我ながら赤面。恥ずかしい台詞、禁止?
「あー、それは私も一緒に歩いていいのカナ? カナ?」
そんな私の気持ちをすくい取るように、こなたは受けとめてくれる。ごく自然に。
「あたりまえでしょ。こなたがいなきゃ、意味ないんだからね」
「そ、か」
再び沈黙。でも、さっきよりはかなりマシな雰囲気になったかな。だよね、多分。
『お待たせしました~』
ちょうど頼んでいた料理がやってきたので、この話はそのままおしまいになった。
「あのさーかがみ、そんなに食べるとまた太るよ」
「またって言うな」
痛いところを突かれて、思わずジト眼でこなたのことを睨みつける。だけどトナカイの肉をほお張りながら顔を真っ赤にして反論しても、あんまり説得力はないかもしれない。
「でも仕方ないじゃない。確かに肉自体はいまいちだけど、このラズベリーソースとのハーモニーがまた絶品で、食べ始めたら止まらないのよ」
「えー、そっかなー。ここまで甘いと逆に引くんですけど」
しかめっつらを浮かべながら、こなたがフォークで肉を突き回している。どうやら私のイチオシメニュー『トナカイの肉のソテー&ラズベリーソースがけ』はあまりお気に召さなかったらしい。
「大使館でこのメニューを発見してから、ずっと楽しみにしてたんだけどなぁ」
「そんなに気にいったんなら、私の分も食べる?」
「え、いいの?」
「だけどさ、かがみ…」
「わかってる。わかってるから、もう言うな」
あうう、帰国してから体重計をみるのが怖い。
§
日本では雪だるまは普通、頭と胴体の二つだが、こちらのは頭、胸、お腹の三つでできている。朝は慌てていて気づかなかったけど、ホテルの玄関で私達を迎えてくれた雪だるまも、やはりこちら風のデザイン。そのうえ大きさがハンパじゃない。少なく見積もっても四メートルはある。私の背の高さの軽く二倍以上、こなたの背丈なら優に三倍はあるのではなかろうか。そう言うと、こなたが不満げに「むぅ」と口を尖らせた。
ホテルで預けていた荷物を引き取ってから改めてチェックイン。エレベータで五階まで登り、フロントで指定された部屋に潜りこむ。窓のカーテンを開けると、まだ午後二時だというのに日はとっぷりと暮れていて、街のネオンだけが妖しく光っていた。
──だめだ。
あわててカーテンをきっちり閉めなおす。湧き上がってくる根拠のない不安感を理性の力で無理やりねじ伏せる。
「どったの、かがみん」
「ん、なんでもない」
──この動揺を、こなたにだけは知られたくない。
今日はもう外出の予定はない。夕食はホテルに来る途中に寄り道したマックでテイクアウトした、ライ麦バーガーセットで済ませるつもりだし。だがそれにしても、だ。
「セットメニューで十ユーロなんて、マジありえないよね」
「そだね。こういうのを見ると、日本って結構恵まれてるってわかるよ」
時間的にかなり早いとは思ったけど、二人でシャワーを浴びて汗を流した。ちなみにこの部屋に浴槽はついていない。そういえばこのホテルには、大浴場ならぬ共同サウナがあるそうだ。今のところ利用する気はないけど。
シャワーしながら洗った下着を干して、バスタオルで髪の毛の湿気を取りながら、今度は二人で保湿クリームを塗りっこした。冬の埼玉の湿気の少なさもかなりのものだと思っていたが、こちらの乾燥ぶりはさらにその上をいく。一日でもケアを怠れば、たちまち肌がボロボロになってしまうのは間違いない。乾燥肌は乙女の大敵なのだ。
「明日からはラップランドだね」
「うん」
こなたの問いかけに、私は短く答える。ラップランドと呼ばれる北極圏の奥地。そこは現地語で『カーモス』と言い習わされる、太陽が昇ることのない暗闇の季節のまっただ中。まったく不安がないといえばウソになるけど、こなたといっしょなら何があってもきっとなんとかなる。
──私はそう信じたかった。
そうして時間だけが、音も立てずにただ過ぎていって。
いろんな細々とした作業を全て片付けてから、決して広いとはいえない部屋の明かりをすべて消し、たった一つのキャンドルに火をともした。ゆらゆらと揺らめく小さなオレンジ色の炎の光は、私たちをやさしく包み込んでくれているような気がする。
どちらからともなく、お互い寄り添うようにベッドの一つに腰を下ろした。寝巻き代わりのトレーナーを通して、こなたの息づかいが、体温が感じられる。
「私さ、ずっと気にしてたんだ」
めったにみせることのない真摯な表情を浮かべながら、こなたがポツリと言った。
「何」
「クリスマスをかがみが毛嫌いしていること」
「あ」
いや、わかってはいるのだ。去年もおととしも、こなたとクリスマスを過ごしたとき。あの日の想いが、喉に棘のように突き刺さっていることを意識せずにはいられなかった。だからきっと、私は心からの笑顔を浮かべていられなかったのだと思う。
だけど恐れているのはあの時の部屋の暗闇なのか、それとも別の何者なのか、未だに図りかねていた。
「努力はしてみるわ。約束はできないけど。でも」
「でも?」
「こんな風に、二人だけの思い出を積み重ねていけば、いつかは…ね」
「うん。しようよ、思い出作り。かがみと二人で」
ふっとこなたが微笑んだ。たったそれだけのことで、薄暗いこの部屋がまるで春の日差しに照らし出されたように感じてしまう。
──ああ、そうだ。
──いつもこうやって、私は救われてきたような気がする。
──傍らにこなたが立っていてくれる限り、私に敗北の二文字はない。
──これから先、どれほどの暗闇と向き合うことになったとしても。
たとえ今は無理でも、ひょっとするといつか赦せる日がやってくるのかもしれない。油断すると吸い込まれてしまいそうなエメラルドグリーンの瞳で、私のことを見つめるこなたを真正面から見据えながら、そうあってほしいものだとぼんやりと思った。
「ところでさ。日本に帰ったら十二月三十日だよね」
ふと気がつくと、いつの間にかこなたの顔にあのニマニマ笑いが復活していた。なんだかイヤな予感がする。実に不幸なことに、この手の私の予感は的中率百パーセントなのだ。
「まさか、あんた…」
「いやぁ苦労したよ。なんとか冬コミの最終日には間に合うようにってさ~。ちゃんとサークルチケットも二枚ゲット済みだし。というわけで、かがみも参加よろしく」
「ちょ、おまっ。また私を巻き込むんかい!」
「えー、いいじゃ~ん。一人だといろいろ不便だしつまんないんだよ。その点、かがみはもう常連だから貴重な戦力だし」
「勝手に人のことを当てにするな。っていうか、なんで私が常連扱いなのよっ!」
「むふふ、久しぶりにかがみのツンを見たよ。最近デレてばっかりだから、正直ちょっともの足りなかったんだよね~」
「なんだと貴様。誰のせいでそんなになったと思ってるんだっ。無い物ねだりすんなっ!」
そんなたわいもないやり取りをしながら過ごすのもいいものだ。なにしろ今年のイブの夜は、ありえないほどに長いのだから。
──そして、おそらくはこの先も。
(Fin)
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