──それはたぶん、
──どこにでもいるような女子中学生の身に降りかかった、
──ほんのすこしの出来事。
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『副委員長とあたし』(改訂版)
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あたしが我に帰ったのはどのくらいのことだったろうか。五分。いや、もっと短いな。
無性に笑いがこみ上げてくる。とにかく誰かに話したくてたまんない。でも、誰がいいだろうか? 残念なことに我が愛すべき保護者たちは不在だし。
なぜかそのとき頭に浮かんだのは、クラス副委員長であるところの花菱美希の怒り狂った顔だった。
あれは先週くらいのことだったか。どうしても気分が乗らず学校を無断欠席したことがあった。そしたら彼女は、それはもうメチャメチャ怒って。放課後、あたしの家までやってくるなり、こう宣言した。
『明日の朝から迎えに来るからっ!』
その言葉通り、翌日から彼女は朝になると家に押しかけてくるようになった。もちろんそれは、あたしを無理やり学校に引きずっていくためだ。最初のうちはすごくイヤだったけど、そのうちアニメの話とかで盛り上がるようになってからは、さほどでもなくなった。たとえばあたしが今秋から「ガンダムOO」を見始めたのは、間違いなく彼女の影響だったりする。まあ今のところ受け攻めだのカップリングだのに興味は沸かないが。
花菱は、背の高さこそあたしと似たようなものだけど、あたしなんかよりずっとスリムな造りで、でも出るべき所はきっちり出てる、結構可愛い女の子。すっごい色白で、ひょっとして美肌とかしてんのかな。肩にかかるくらいに切りそろえられた髪の毛に至っては、もうありえないくらい艶やかで、いったいどうやってケアしてるんだろうと時々不思議に思うことがある。
◇
あの日彼女は『どうしても休みたくなったら私に連絡して』と携帯の番号とメルアドを押し付けていった。その後、彼女からかかってきたことは何度かあるけど、自分からかけたことは一度もない。面倒なのでアドレス帳には未だに登録していなかった。仕方がないので、とりあえず携帯の着信履歴を頼りにコールする。一回、二回、三回……。
五回目で彼女が出た。
『はい、花菱です。うれしいな、柊から電話なんて』
「ごめん、今ちょっと話せる?」
『うーん、もうすぐ塾に行かなきゃならないけど。でも十分くらいならいいよ』
「いやまあ、別に大したことじゃないんだけど。実は……」
と、さきほど起こった事件の顛末を、あたしはかいつまんで話した。笑いの発作を抑えながら。
それは自宅のリビングで家族共用のPCをいじっていた時のことだ。何かが窓の外で動いたような気がして、何気なくあたしは顔を上げた。その視界に飛び込んできたのは、ひとりの男の子の姿。ランドセルを背負っているから、どうやら小学生らしい。背格好から見てたぶん高学年。時間から考えて、おそらく六時間目が終わって家に帰る途中だったのだろう。そこまではまあ普通だ。
そいつが、思いっきりズボンを下ろしているのを除けば。
いったいこんなところで何しているんだろう。最初に沸いた疑問はそれだった。リビングから見える光景はあたしの住んでいるアパートの裏庭で、その先には小さな山があるという風情。少なくとも小学生の通学路ではありえない。そいつのことをもっとよく観察しようと、あたしは目を細めた。
双方にとって不幸なことに、実によく見えた。そいつのオ○ンチンが。しかもその先っちょから黄色っぽい液体がほとばしっている所まで、それはもうしっかりと。
見つめること十数秒。ようやく事態の重大さが飲み込めた。
こ、こいつ、よりにもよって人ん家の軒先で立ちションしてやがるっ!
アパートの中からあたしに見られてるとも知らずに、そいつはとても気持ちよさそうに生理的欲求に身をゆだねてた。やがて液体の放出が終わると、モノをふりふりっと振り、それから衣服を整えて、そいつは何事もなかったかのように表通りの方へと去っていった。
「……ってわけ。めっちゃ笑えるでしょ?」
だが残念なことに花菱は大して面白いとは思わなかったらしい。妙に彼女の声が硬い。
『うん、話はわかった。少し待ってて。すぐそっちに行くから』
「えっ。いやでも、これから塾あるんでしょ?」
『そんなのいいから。絶対待ってて。絶対だよ』
何度も何度も念押ししてから電話は切れた。
わっかんないなあ。いったい花菱は何をあわててたんだろうか。
◇
わりと男女問わず人気があるっぽい。頭の回転も悪くない。けっこう空気も読める。保健室の窓からグラウンドで体育してるのを何度か見かけたけど、いつも花菱は特定のグループの中心だった。そのグループ自体、クラスの中ではルックスのいい娘ばかり。
やはり彼女の立ち位置は一軍のような気がする。そもそも立っている場所からして違うのだ。あたしみたいな、クラスのどこにも居場所のない、最低ランクの人間とは。
ただ気になることもないわけじゃない。なんだろう、彼女にはいつもどこか醒めたような印象がある。笑顔自体は絶やさないけど、まるで仮面をかぶっているみたいな感じ。頭の中にあれこれと彼女の顔を浮かべてみる。そしてようやく理由らしきものが思い浮かんだ。そうか、目だ。彼女の目が笑っていないんだ。
そこまで考えがおよんだところで、あたしはより重大な懸案事項の存在に気がついた。
「あ、ヤバ」
少しは部屋、片付けとかないと。「figma柊かがみ」とか思いっ切りまずいし。
すぐ行くって言ってたけど、どのくらいかかるのだろう。そういえば、あたしは彼女の家がどこにあるかも知らないんだっけ。再びあたしの頭の中で、彼女の存在が膨れ上がる。
花菱とは二年のときに同じクラスになった。
保健室登校をしてるあたしのところに、先生たちが作った自習用のプリントを持ってくるのが、彼女の日課のひとつだった。だけど一学期のときは、まともに言葉を交わした覚えがない。あれは確か二学期が始まって何日かしたころだったと思う。
『あれっ、それ「らき☆すた」じゃない?』
『へえ。花菱、これ知ってるんだ』
『うんまあ。昔、聴たことあるよ。ニコ動で』
たまたまあたしが学校に持ち込んでいた「らき☆すた」のコミックに彼女が興味を持ち、それをきっかけに少しだけ話すようになった。幸い保健室であれば、クラスの連中にとやかく言われる恐れもなかったし。
意外なことに彼女の知識はアニメにもおよんでいた。まあどちらかというと「銀魂」、「BLEACH」、「コードギアス 反逆のルルーシュ」、それに「ガンダムSEED」や「ガンダムOO」といった、なにやら腐女子の香り漂う系統がお好みのようだったけど。
部屋のヤバそうな品物をクローゼットに押し込みながら、あたしはそんなことを思い出していた。
◇
十分ほどで花菱はやって来た。それも自転車で。ずいぶんと飛ばしてきたらしい。可愛らしい顔やTシャツがもう汗びっしょり。気の毒なくらいに息も上がってる。細くて漆塗りを思わせる髪の毛が、何本もおでこに張り付いてる。あわててあたしは、乾いたバスタオルを探し出してくると彼女に手渡した。
「お邪魔しまーす」
「あ、今家には誰もいないから。遠慮なく上がりたまえ」
玄関からそのまま自分の部屋に招き入れる。そういえばここに引っ越してきてからもう一年になるけど、家族以外の誰かを入れるのは初めてだ。
部屋に入るなり、彼女はコンビニ袋を押し付けてきた。中には無造作に詰め込まれたペットボトルと何種類かのお菓子が入ってる。『ロイヤルミルクティー』とか『ちょこりんこ2』とか、何気にあたしの好みのチョイスになっているのが少し嬉しい。
「ささっ、飲んで食べて」
勝手にあたしのベッドに座って、隣をポンポンと叩く。
「ほら、ここに座る」
「えと、あたしの部屋なんだけど、ここ」と指摘してみる。けど「まあまあ」と軽くあしらわれてしまう。
「そんなことより、ほら。溜め込んでないで話してみ。きっと楽になるから」
「え……? 話が見えないんだけど」
「だって柊、怯えてるでしょ、何かに」
「怯えてる? あたしが? いったい何に?」
失笑を浮かべる花菱。そんなにあたしはアホなことを言ってるだろうか。
「そんなこと、私にわかるわけないでしょ。だからこうして聞いてるんじゃない」
そうか、怯えてるのか、あたしは。
ふうっと深呼吸する。
甦る。
暗い記憶。
思い出したくもない事件──。
あれは今年の春先、病気で入院してた時のことだった。
ある日の夜遅く。ふと異様な気配に目を覚ますと、ベッドのそばに下半身を露出した男性看護師が立っていた。
あまりのショックに悲鳴すら出せなかった。かろうじて半身を起こしたところでがっしりと両肩を掴まれる。そいつの顔が近づいてくる。五十センチ。四十センチ……。
あとほんの十センチくらいだったと思う。敵が有効射程距離に侵入。日頃の鍛錬の成果。身体が自動的に反応。自分の両手で相手の両耳をホールド。軽く頭を後ろに反らせ、そのまま男の顔面に渾身のヘッドバッド。
鼻血を噴出させながら男は卒倒する。静まり返った真夜中の病棟に信じられないほどの大音響が響き渡った。人間にはどうしても鍛えられない急所がいくつかある。たとえば鼻もそのひとつ。あたしの苦し紛れの一撃は、そこを見事にクリーンヒットしていたのだった。
慰謝料とかはそれなりに貰ったらしい。でもあたしや親たちの不信感はどうにもならず、結局今の病院に転院した。その看護師がどうなったかは知らない。知りたくもない。
そんな、もう終わったはずの事件──。
話を聞き終えた花菱が、あたしのことをそっと抱き締める。
「ねえ柊。こういう時はさ、泣いてもいいんだよ?」
なぜか花菱の汗の匂いがとても心地いい。優しさに包まれてるって感じがした。
あたしが落ち着いたのはどのくらいのことだったろうか。三十分。いや、もっと長いな。
◇
「今日はありがと。なんかお礼がしたいんだけど」
「いいよ、別に。そんなつもりで来たわけじゃないし」
「だって塾とかも休んだんでしょ。悪いよ」
「私が勝手に心配して勝手に飛んできただけだもん。柊の気にすることじゃないって」
ブランド物のスニーカーを履きながら、花菱がひらひらと器用に右手を振る。
「いや、それじゃあたしが引きずっちゃうって。なんでも言って。できることならなんでもするから」
「まあ、そこまで言うなら……」
しばしの間考え込んでから、ぱあっと顔を輝かせる。
「じゃあこれから、二人っきりの時は『美希』って呼んで」
「は? ……そんなんでいいの?」
「もちろん。最高のお礼だよ、それ。柊には──咲夜にはわかんないだろうけど」
一点の曇りもない、極上の笑顔を彼女は浮かべていた。人間ってこんなにも嬉しそうな表情ができるものなのか。妙なところであたしは感心してた。
「わかった。これからは花菱のこと、美希って呼ぶことにする」
その瞬間、彼女は身体をふるふるっと震わせる。
「ねえ、もう一回名前呼んで」
「美希」
「もう一回」
「……美希」
「もう一回」
「……もういいでしょ?」
「もう一回だけ。これで終わりにするから。お願い」
そんなやり取りを十回以上は繰り返させられた。
「じゃあ、また明日、朝八時にね。遅刻とか欠席とかは許さないぞ」
そう言い残すと、花菱は──いや美希はドアの向こうに姿を消した。一人あたしは玄関に取り残される。
なんなんだろう、このものすごい喪失感は。
帰ってきた親に声をかけられるまで、そのままあたしは玄関で呆けてたらしい。
◇
翌朝。
「ね、手、引いてあげよっか?」
「えー、必要ないよ別に。今のところ、そんなに困ってないし」
最近のあたしはけっこう体調がいいのだ。いちおう念のために杖は持ってるけど、平地ならほとんど必要がないくらいに。
「ひっど。昨日はなんでもお礼に言うこと聞いてくれるって言ったじゃん」
「それはもう終わった話でしょ」
「ぶー。どうせならキスとかエッチとかにしとけばよかったかな」
……待て待て待て。なんか危ないこと口走ってるぞ、こいつ。
「ちょ、美希。おまっ、何言ってんだ」
「ふふ、冗談だって。意外に咲夜って純情ちゃんだね。可愛いな」
ととっと二、三歩先行してから、こちらに向かってくるりとターン。制服のジャンパースカートがふわりと浮き上がる。
「ほら、行こ。遅刻するよ」
秋の日差し。
宇宙まで見えそうな青空。
紅葉のきざしを感じさせる山並み。
夏の残り香が未だに漂う青々とした草原。
名も知れぬ鳥が飛び交い、秋の虫が合唱会を開催する田舎道。
そんな世界の真ん中で。
美希が、笑ってる。
あたしのことを見つめながら。
あたしのことだけを見つめながら。
あたしだけしか知らない極上の笑顔を浮かべてる。
そよ風が空を、山を、草原を駆けぬけて、美希の髪の毛に悪戯していく。
彼女が慣れた仕草でそっとそれを撫でつける。
その仕草はひどく扇情的で。
あたしにはそれがとても、この世の光景とは思えない。
なんだろう、まるでここは──そう、妖精空間とか?
そんな陳腐な言葉しか思いつけないあたしという存在が、ほんの少しだけ、悲しかった。
(Fin)
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