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『初冬のひととき/終わりの始まり』
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十一月も、残すところあと十日たらず。
冬の兆しを顕す弱々しい陽の光。
深い青で染め上げられた空に浮かぶ巻層雲。
ぴいん、という音が聞こえるような、張り詰めた空気。
彼方の山並みは紅葉の時期を過ぎ、すでに枯れ木の賑わい。
道を覆い尽くさんばかりの、赤、橙、黄色、茶色の落ち葉のじゅうたん。
玄関を一歩出たとたん、あたしたちの身体はぶるっと震える。
「寒いね」
「うん」
短い会話。
「手袋、持ってくればよかった」
「そんなに寒い?」
「うん、まあね」
不意に美希が、あたしの左手を握り締めると、そのまま自分の胸元へと押し付けた。彼女の胸がむぎゅっと潰れる感触が伝わってくる。
「ちょ……!」
「これであったかいでしょ?」
「ヤバいって。誰が見てるかもわかんないのに」
「ヤバくない。誰が見てたっていいもん」
「ううっ」
すでにあたしの左腕には、美希の手を振りほどく力は残されていない。昨晩聞いたばかりの美希の切なげな声が生々しく脳裏によみがえり、あたしは頬がかあっと熱くなるのを感じる。
「せめて上着のポケットとかにしてよ」
「何それ、エローい」
くすくすと美希が笑う。
「胸に手を押し付けるのはエロくないのか」
「下手に隠すのがよくない。こういうのは堂々としてたほうがいいの」
「ほんとかよ」
狭苦しい山あいの道。その申しわけ程度の歩道を、あたしたちは一歩ずつ踏み締めていく。
やがて歩道もなくなり、簡易舗装の道だけが林の間を突っ切っていく。
ざわざわ。
ざわざわ。
ざわざわ。
北風にあおられた木々のざわめきだけが聞こえる。落ち葉が風に舞い、あたしの頬にぺしぺしとあたる。一枚二枚ならまだしも、何十枚と襲い掛かってくるとなると、なかなかにうっとおしい。
頭についた落ち葉の欠片を、美希がはらってくれる。
「ありがと」
「うん」
なおも歩き続けていると、二羽の山鳩が、道のど真ん中で何かをついばんでいるのが見えた。思わず軽口が飛び出す。
「あれ、美味しいかな」
「食べられるの?」
「焼き鳥とか」
「咲、ほんとに焼き鳥好きよね」
呆れたような声を美希が上げる。
いつの頃からか、美希はあたしのことを「咲」と呼ぶようになった。そう呼ばれるのは少しだけ心地いい。それは美希だけが知っている、美希だけに許した、あたしの呼び名だから。
「小さい頃、道場からの帰り道でさ。一本七十円の焼き鳥買って、食べながら帰ったんだ。あれは美味しかったなぁ」
「じゃあ今度、作ってあげようか?」
「へえぇ、美希って焼き鳥できるんだ」
「やったことはないけど、細かく切って串刺しにして焼くだけでしょ。道具があればなんとかなると……なると思うけど」
「……期待しないで待ってる」
「ぶー。それは私に対する重大な挑戦ね」
そんなことを話している間に、山鳩たちは身の危険を感じたのか、さっさと飛び立ってしまった。
やがて古ぼけた石造りの階段が、あたしたちの行く手を遮る。
「回り道、する?」
「いや。今日は、登れそうな気がするから」
「わかった」
今日を逃すと、もう二度と登れないから、とは言わなかった。言えなかった。
今週の検査の結果はひどく悪いものだった。
握力や蹴り上げる力の低下もさることながら、重大な懸念材料として浮上したのは肺活量の異常な値。それは先月の三分の一、九〇〇mlにまで落ち込んでいたのだ。ついにあたしの病魔は、肺を動かすための必須の筋肉、呼吸筋をも食い荒らし始めたのだった。
あたしには二つの選択肢が示された。
ひとつは即時入院し、人工呼吸器に接続する。出来る限り身体を安静に保ち、リハビリによって筋力の低下を引き伸ばし、延命を図る。
もうひとつは薬を使って呼吸筋を刺激する療法。この場合、自発呼吸能力は改善され、ある程度は在宅治療も可能だが、その代償として運動能力が損なわれる。
薬の使用を、あたしは希望した。迷いはなかった。
一日でも長く今の生活を続けたかった。いや、しがみついていたかった。ネットの向こうであたしに声援を送ってくれる人たちに。自然に恵まれた家に。愛すべき保護者たちに。そして、美希に。
薬を使い始めて三日。確かに呼吸はめざましく改善された。少し動いただけで息切れするようなこともない。夜中に息苦しくて目が覚めることもない。これはとても助かった。
もちろん、大きな代償も支払わされた。
まず左手の肘から先に力が入らなくなった。肩より上に持ち上げることは、もう出来ない。キーボードもしょっちゅう打ち間違える。予測されていた事態とはいえ、これはかなり堪えた。
次に左足。ひざを持ち上げるのも一苦労だ。ちょっとした段差でもつまずいてしまう。自分ではクリアしてるつもりでも、足がまったく言うことを聞いていないらしい。
そして今日。右ひざから下の部分で麻痺がはじまった。感覚がすっかり鈍くなってしまったため、地面を踏みしめても不安定なことこの上ない。まるで雲の上を歩いているみたいだ。
この調子だと、自力で歩けなくなるのは時間の問題だろう。
あれは昨日の夜のことだ。あたしは美希に全てを話した。
その上で彼女に別れを告げるつもりだった。残された者の痛み。心が半分死んでしまうほどの辛さ。そんなものを彼女に味あわせたくなかった。
だが全てを聞き終えた美希の反応は、実に意外なものだった。
『それは得がたい経験ね』
『だからその経験値、私にも半分わけて』
『もし咲が生き続けるためにこの世に未練が必要なら、私がその未練になるよ』
もはや突き放すことなど、あたしにはできなかった。
そしてあたしたちは最後の一線を越えた。大人たちから見ればそれは児戯に等しい睦事だったかもしれないが、あたしと美希にとっては一種の誓約の儀式にほかならなかった。
あたしたちは無言で階段を登る。
言葉などいらない。
この一歩が。
この一呼吸が。
このひとときが。
あたしたちの絆。
あたしたちの記憶。
あたしたちの思い出。
十一月も、残すところあと十日たらず。
あたしたちの最後の冬が、始まろうとしていた。
(Fin)
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