――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
いばらの森奇譚
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
あたしは『マリア様がみてる いばらの森』という本を二冊持っている。
一冊は自分のお金で購入したもの、もう一冊は預かったものだ。
というか、より正確には返しそびれて、そのまま現在に至るという状態なわけ。
何でそんなことになったかというと、少し長くなるのだけど。
あ、ごめん、ちょっと待ってて。今、ドナーカード書きかけだから──。
§
HCUという単語を聞いたことがあるだろうか。High Care Unitの略だ。日本語では準集中治療室、集中管理病棟、重症患者病、高度治療室などというらしい。要するにICU、いわゆる集中治療室に入るほどではないが、それでも高度で緊急を要する患者のための病室だそうだ。
その人に出会ったのは、去年あたしがある大学病院のHCUに入院していた時のことだった。その頃あたしはようやく危機的な状況を脱し、歩行器を使ったリハビリを始めてた。
HCUは意外に広い。
そこにはたくさんの人がいた。若い人、老いた人。男の人、女の人。わりと程度の軽い人、包帯でぐるぐる巻きにされている人、カーテンをきっちりしめて中の様子が伺えなくなっている人、まるきり意識がなくてぐったりしてる人。少なくとも二十人は下らなかったと思う。そんな雑多な人たちが、一列にベッドに横たえられているのを見つめながら、あたしは一歩ずつ歩いていく。崩れ落ちそうになるのを必死に我慢しながら。
その中で、ひときわ目立つ女の人がいた。
多分、十代後半くらいだと思う。全体にほっそりとした造り。とても肌の色が白くて、日本人離れした感じ。黒くて長い髪を後ろでまとめていて、きれいに整ったその顔立ちがとても印象的な人だった。
きっとあたしは、穴が開くほどその人のことを見つめていたんだと思う。それに気づいたのか、彼女は読んでいた本から顔を上げ、こちらに視線を投げかけてきた。まさかそんなことになるとは思いもしなかったあたしは、すっかり動転してしまい、その場に立ち竦んでしまった。
距離はもう五メートルとない。
「ごめんなさい」
とっさにあたしの口から飛び出したのは謝罪の言葉。
「なんで謝るの」
「だって、ずっと見てたから」
彼女がくすり、と笑う。
「ね、本は好きかな」
「まあ好きですけど」
「じゃあ、この本貸してあげる。おもしろいから」
「え」
何を考えているのかわからなかった。ほとんど初対面も同然の相手に、今まで自分が読んでいた本を差し出すなんて。
「毎日リハビリしてるんでしょ。今度通りかかった時にでも返してくれればいいから」
「でも、悪いですよ」
「だいじょうぶ、私はもう何十回も読んだから。そうだな、もしよかったら、感想でも聞かせてくれると嬉しいかも」
「その、感想は──苦手かな」
「ふふっ、そんなに構えないでよ。別に学校の宿題とかじゃないし」
なんて柔らかい笑顔なんだろうと思った。まるで殺風景なHCUが、春の花園に変わったような気がする。
「どんな感じだったかとか、印象に残った台詞とか、登場人物に共感できたかとか、まあそんなところ」
そう言ってから、不意に不安そうな表情を浮かべる。
「ダメ、かな」
卑怯だ、それ。そんな顔されたら断れるわけない。
「努力はしてみます」
「ありがとう、優しいのね。お名前は?」
「咲夜です、柊 咲夜」
「へえ、咲夜ちゃんか。可愛らしい名前ね。あなたにぴったりだと思う」
なぜか胸が高鳴るのを感じた。
「じゃあこれ」
なんともいえない甘い香りが、あたしの鼻をくすぐったことだけは覚えている。
§
なんだかふわふわした気持ちを抱えながら、あたしは自分のベッドに戻った。
その本の題名が『マリア様がみてる いばらの森』。
それは『いばらの森』と『白き花びら』の二本の中篇が収録されている小説本だった。
正直なところ、あたしは学園モノがあまり好きじゃない。学校にはいい思い出なんかほとんどないし、空想にひたるときくらい、現実のイヤなことから少しでも遠ざかりたかった。でもあの人の不安そうな表情を思い出すと、このまま読まないで済ませるという選択はありえない。
読み終わってから、涙が止まらなくなった。
そのかわり、危うく自分の呼吸が止まりそうになった。薄れゆく意識の中で、あのイヤらしい電子アラームが警報を知らせていたことだけが、妙に記憶に残ってる。
翌日のリハビリは中止になった。
酸素吸入用のカニューレを取り付けられたあたしは、きっと一段とブサイクな姿になっていたことだろう。でもそんなことはどうでもよくて、あの人に会えない、という単純な事実があたしを苦しめていた。
さらにその翌日。ようやく回復したあたしは、リハビリがてら本を返しに行った。だけど、あの人のベッドはもぬけの空だった。ただ姿が見えないというわけではない。きれいにメイクしなおされていて、まるで人の気配がないのだ。まるで最初からそこには誰もいなかった、といわんばかりに。仕方がないので、通りかかった看護師さんに聞いてみることにした。
「あの、ここの人ってもう一般病棟に移ったりしたんでしょうか」
「何か用でもあるの」
「本を借りたので、返したくて」
「そっか……」
一瞬だけ、看護師さんが思案顔になる。
「悪いけどその本、しばらく預かっておいてくれないかな。そのほうが、彼女もきっと喜ぶと思うし」
看護師さんの優しい笑顔の奥にしまい込まれた、深い悲しみの色をあたしは見た。
そして理解してしまったのだ。
あの人はもうこの世にはいない、ということを。
その後のことはほとんど覚えていない。
それからさらに三日間、あたしはリハビリできなかった。
§
退院してから『マリア様がみてる』を全巻買いそろえた。そうすることによって、少しでもあの人に近づきたいと思った。『いばらの森』ももう一冊購入して、あの人に借りた方は大切にラッピングしてしまい込んである。
今も週に一度はリハビリのために、月に一度は神経内科の診察のために、片道三時間かけて大学病院に通ってる。そして再診受付機の行列で、待合室での順番待ちで、ふと気がつくと、あたしはあの人の面影を捜し求めているのだ。名前すら知らないあの人のことを。
恋と呼ぶには、この感情はあまりにも儚すぎる。
無理もない。育てる暇すら与えられなかったのだから。
だから今もあたしは、この感情をもてあましてる。
多分あの日、あたしは半分死んでしまったのだと思う。
でも不思議と悲しみは涌いてこない。
あの人は一足先に逝ってしまったけど、再会できるのは実はそんなに遠いことじゃない。一時は持ち直したものの、最近になってあたしの病状は再び悪化し始めてる。この間も駅のホームで転倒した。杖を頼りに歩いているけど、それを持つ手もだんだんと力が入らなくなっているんだ。今はなんとか隠し通しているけど、バレるのは時間の問題。
いつまで自力で病院に通えるかもわからない。
通えなくなったら、またもや入院だろう。
そして多分、二度とは退院できない。
身体中の筋肉が次第に動かなくなり、やがては呼吸筋も麻痺して自力呼吸すらできなくなってしまう。それがあたしの病気。十代の、しかも女の子がこの病気を発症するのは、かなりめずらしいことらしい。
治療法は、もちろんない。
死ぬのは別にかまわないけど、呼吸困難を起こした時の苦しさだけは未だに慣れることができない。ああそれと、親達が哀しむのはちょっとイヤかも。
ただ、もし許されるのなら、せめて十五歳までは生きてみたいと思う。そうなれば、あたしの臓器を他の困っている人にあげることができるから。
残念ながら今の日本の法律では、十三歳のあたしが臓器提供をしたいと申し出ても、それが許されることはない。だが十五歳になれば、自らの意思で提供できるようになるのだ。もしあたしの死が誰かの生につながるのであれば、それはそれで意味のあることではないだろうか。あたしの人生も無駄じゃなかった。そんなに捨てたものじゃなかった。そんな風に思えるかもしれない。いくらなんでも甘すぎるだろうか?
やがてやってくる未来。
誰にも変えることのできない未来。
たとえ神さまにだって変えることのできない未来。
でもそれは、あの人に会える未来。
親達には悪いけど、やっぱりあたしは、少しだけ楽しみにしてる。
あの人と話したいことが、あたしにはそれこそ山のようにあるのだ。
でもとりあえずは、あの人の名前を聞くことから始めてみようかな。
(Fin)
TOPに戻る
「副委員長とあたし」に続く
PR