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『潮風が目にしみる』
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地図を見ればわかるように、埼玉県には海がない。だから海水浴というのは、必然的にちょっとしたイベントになる。
日帰りで行くこともできなくはないけど、結構疲れる。となれば泊りがけだ。そうなると必然的に持ち物も増える。それに移動手段だって必要で。
ここまでくると事前の準備は、小規模な旅行の域にまで達する。参加メンバーの日程を入念に調整し、週間天気予報を睨みながら決行の日を決めた。それをカレンダーに書き込んで、約束の日を指折り数えて待ち望む。
ただそれだけのことなのに、自然と心が浮き立つのがわかる。
──まるで恋する乙女のように。
往路では成実さんの運転に冷や汗をかかされたものの、おおむね今回のイベントは成功裏に終わりそうだ。黒井先生が宿の清算を済ませたら、私たちは再び車中の人となる。夏の朝の日差しの中、潮風を身体いっぱいに浴びるのもあとわずかというわけだ。
ふと気がつくと、私の視線は彼方の砂浜で水平線を見つめる、こなたの後ろ姿に向けられていた。その傍らにはつかさもいる。少しだけ──ほんの少しだけだが、羨ましいと思う。
私の横では、みゆきが何か言いたそうにこちらをちらちらと見ているが、とりあえずそれは気にしないことにする。
要するに、私たちは思い々々に祭りの終わりを感じ取っている。
そういうことなのだ。
それ以上でも、それ以下でもない。
よけいなことを考えるからいけないのだ。
そんな風に柄にもなく物思いにふけっていると、先に車を出し終えたらしい成実さんが私に声をかけてきた。
「やほー。こなたは?」
「つかさと浜辺の方に行ってるみたいです」
「そっか」
そう言うと、成実さんは建物の壁に寄りかかっている私のすぐそばまでやってきて、同じような姿勢を取った。こういうところ、少しこなたに似ているかもしれない、などと思う。
「少しいいかな。柊さん」
「かがみでいいです。つかさと──妹とごっちゃになっちゃうんで」
「そっか、そりゃ助かる。じゃああたしのことも〝ゆい〟でいいよ」
「わかりました、ゆいさん」
ここまでは順調だった。私の想定外だったのは、ゆいさんがいきなり直球の質問を投げかけてきたことだ。
「かがみちゃんって、こなたのこと、どう思ってる?」
「どうって」
「こなた──あの娘さ、母親がいないことは知ってるよね」
「ええ。本人から聞きました」
そのことを認識するたびに、私は暗い気持ちになる。確か中学時代も仲のいい友達がひとりいるくらいだったと言っていた。兄弟もいない、友達もいない、母親もいない。とてもじゃないが、私にはそんな生活は耐えられそうにない。どうしてあいつは、あんなに自然にいられるのだろう。
「そんなだから、まあいろいろと気にかけてきたわけよ。ほら、女親じゃないと困ることってあるじゃない。たとえばナプキンの選び方とか」
「ああ、それはありますね」
「もっともあの娘はけっこう鋭いところがあってさ、気を使わせてるって悟るととたんに心閉ざしちゃったりして。中学くらいまでは、いや、最近まではいろいろと難しかったな」
それは私もずっと感じてた。
あいつは自分を押し付けない。
たとえ話が通じないことがあっても。
決してそれ以上踏み込んでこようとはしない。
「でも最近ね、かがみちゃんの名前が出てくるようになってから、あの娘、ちょっと変わった気がする」
「そう、なんですか?」
「あの娘ね、家族以外の人たちと旅行するなんて、今までなかったから」
心の中を何かが満たしていく。
これは──この気持ちは、なに?
「なんせあーゆータチだから、ロクに友達もいなくてね。だから、かがみちゃんには感謝してるんだ」
「あいつが変わったのは、うちも感じてた」
「黒井先生」
どうやら清算を終えたらしく、先生も会話に参加してきた。
「ネトゲでな、以前と戦い方が変わってきてるんや」
「へえ」
「昔のあいつには、『どうせゲームだし』っちゅー態度がどっかにあった。刹那的な戦い方を選択して、パーティから見限られかけたことも一度や二度やない」
学校ではついぞ見たことがない優しげな眼差しに、私は少し落ち着かない気分になる。この人にこんな表情ができるなんて、思ってもみなかった。
「でも最近はチームプレイに徹するとか、後輩を指導するとか、そういうことを学んできよる。あれはあれなりに考えることがあるっちゅーことやな」
「私も同感です」
「みゆき」
「私の知っている昔の泉さんは、いつも心ここに在らずという感じで。それと、ふっとどこかに行ってしまわれるのではないか、という危うさが見え隠れすることもありました」
「そうなんだ」
なんだかずいぶんと人気者だな、こなた。まるで全人類があんたの一挙手一投足を見守ってるみたいだ。
「でも、かがみさんと昼食をご一緒するようになってからは、泉さんはとても楽しそうに見えます」
「そりゃ、私をいじり倒して喜んでるだけなんじゃ」
「確かにそうかもしれませんね。でも私には、ただそれだけが理由ではないような気がするんですよ」
あくまで微笑んでいるが、否定を許さないという態度でみゆきは断言する。
「みなさんのお話をまとめると、こういうことではないかと思います」
ちょ、みゆき、ずいぶんと楽しそうだな。
「泉さんは、かがみさんの影響で変化しつつある。それも好意的な変化を」
ゆいさんと黒井先生が力強くうなずく。どうやら知らないうちに、私の包囲網が形成されていたらしい。
「私のって──私が、いったい何をしたっていうのよ」
懸命にがぶりを振る。
違う。
そんなんじゃない。
そんなこと認めない。
──何を?
不意に眼前にハンカチが差し出された。みゆきの仕業だった。
「え──な、に?」
「気づいていらっしゃらないのですか。かがみさんは今、泣いていらっしゃるのですよ」
潮風が妙に生臭い。目にしみる。
「ありがとう、あの娘のために泣いてくれるんだ」と、ゆいさん。なんてずるい物言いなんだと思う。
「そんなんじゃ──そんなんじゃ、ないです」
こみ上げそうになる何かを懸命に押さえ込む。
「同情なんて、きっとあいつは望んでないです。そんなの、あいつに失礼だ」
私は必死に否定する。
ただ自分の心を守るために。
永遠の秘密にすると決めた、私の想いを気づかれないために。
「ねえ、かがみさん」
「なに」
「私も、成実さんも、黒井先生も、みんな泉さんのことが好きです。でも、かがみさんはきっと、もっと好きなんですよね」
「それは……」
思わず口ごもる。
何か反論しなきゃいけない。
でもうまい言葉が出てこない。
そんな私にとどめを刺すかのように、みゆきが控えめな笑顔を浮かべながら口を開く。
「だから私たちは、かがみさんに泉さんのこと、託そうと思います」
今度こそ、私は言葉を失った。
ダメだ。
必死に押さえ込んでいたものが。
隠していたものが、せきを切って溢れ出す。
この秘められた想いを、私は押しとどめることができずにいる。
ゆいさんが両手を差し伸べる。もはや私は拒むすべを知らない。そのまま幼子のように胸に抱かれてしまう。
「優しい娘。こなたがあなたと出会えて、本当によかったよ」
生まれて初めて、赤の他人の胸の中で、私は声を上げて泣いた。
(Fin)
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