<二日目 〇六時〇〇分>
真夏の朝日がまぶしい。
潮風が妙に生臭い。
目にしみる。
海岸で待ちくたびれていた私の所にやってきたと思う間もなく、こなたはこう言い放った。
『やっぱ私って、かがみのこと、どうしようもなく好きみたい』
えっ……こな、ちょ……え、ええええっ!
『今まで待たせてごめん』
こ、こなたっ。少し落ち着けっ。自分が何を言ってるのかわかってんの?
『でもこれからは同じ道を歩かせて。ううん、たとえ嫌だといってもついて行くから』
同じ道って、ひょ、ひょっとして、私のこと、ずっと想っててくれたの? 私のこと、これからも好きでいてくれるの?
次の瞬間、感極まった私は、こなたのことを力いっぱい抱きしめていた。身体中でこなたの存在を感じる。ほのかな甘ったるい体臭が鼻腔をくすぐり、気管を通り抜け、胸いっぱいに満たしていく。これは夢じゃない。夢なんかじゃないんだ。
──嬉しい。
ピピピピ、ピピピピ、ピピピピ。
……ちょっと、邪魔しないでよ。せっかく盛り上がってるとこなんだから。
ピピピピ、ピピピピ、ピピピピ。
……それにしても、何の音だっけ、これ。
ピピピピ、ピピピピ、ピピピピ。
……ああ、なんだ。ホテルの時計のアラームの音か。
……そうだよね。夢だよね。こんなこと、現実にあるわけないもんなぁ。はあ。
そう思った時、おでこに強い衝撃が走った。今度こそ私の意識は現実に引き戻される。ばっちりと目が開いた。しかし何かがおかしい。確かに目は開いているはずなのに、視界がまるで効かない。あたり一面、真っ蒼だ。
「うわあああぁぁぁっ!」
混乱のあまり、恥も外聞もなく悲鳴を上げてしまう。
「うにぁあゃ……?」
奇妙なうめき声とともに、私の視界が開けた。わずかなタイムラグでおおまかな状況を把握する。要するに、いつの間にか私のベッドに潜り込んできたこなたが、彼女の頭で視界を塞ぎ、しまいには頭突きまで食らわせてきた……ということらしい。視界いっぱいに広がっていた蒼い世界は、彼女の髪の毛の色だったのだ。
事態を把握するにつれて、自分でも驚くほどの怒気が湧き上がってくる。
「ちょ、おま。他人のベッドで何やってんだっ!」
首根っこを引っつかみ、奥歯がガタガタと音を立てるほどゆさぶってやる。しばらくの間うにゃうにゃと抗議の声らしきものをあげていたが、やがて本格的に覚醒したらしい。情けない声で反論してきた。
「痛い、痛いよかがみぃ」
「さっさと起きんかっ。ってか、早くベッドから出てけっ!」
「そんなー、昨日の夜はあんなに情熱的だったのに。朝になったらずいぶんと冷たいんだ」
「はあ? お前、脳みそ沸いてんじゃないのかっ」
あい変わらず、こなたは意味不明のことを口走っている。しかし苛立つ私とは対照的に、こなたの顔には笑みすら浮かんでいた。
「んふー。昨日はお楽しみでしたね……みたいな」
「な、何のこと?」
「ほんとに昨日の夜のこと、何も覚えてないの?」
「ま、まさか。そ……んな」
私の頭から音を立てて血が引いていくのがわかる。たとえ明日世界が滅亡すると聞かされても、これほどの衝撃は受けないんじゃないだろうか。
「うそ……わた、私、初めてだったのに……」
「初めてって、何が?」
不思議そうな表情を浮かべ、こなたが私のことを見つめる。
「ねえ、何が初めてだって?」
「そ、それは……」
口ごもる私に対し、一転してこなたが小悪魔な笑みでささやく。
「ぷくくく、かがみんはほんとに可愛いね~」
事ここに至って、ようやく私もからかわれていることに気がついた。
「アホなこと言っとらんで、さっさと着替んかっ!」
「ほーい」
いかにもあいつらしい軽い返事に、どうにも気持ちがおさまらず、私は手近にあった枕を思いっきり投げつける。しかしその渾身の一撃を、こなたは軽やかなステップでさらりとかわし、そのまま隣の部屋へと姿を消した。
……とにかく落ち着け、私。
気分転換をはかるため、私は窓のカーテンの隙間から外の様子を眺めることにした。重厚なデザインのそれを指先でわずかにめくると、たちまち朝の陽光が瞳を焦がす。目を細めてその攻撃に対抗しながら、さらに下界を観察する。道を行きかう無数の人々と車の大集団が目に飛び込んできた。耳を澄ませると、まるで道を行きかう人々の息づかいまで聞こえてくるような気がする。
マドリッドがスペインの首都であることは今さら確認するまでもないだろう。人口はおよそ三百万人。EUの都市ではロンドン、ベルリンに次ぐ規模だ。ちなみにヨーロッパの首都の中でもっとも標高が高く、およそ六五〇メートルと聞く。ただ見渡した感じでは周りに高い山が見当たらないので、一見して大平原のど真ん中に建設されているようにも思える。
ホテルのある地区は五~六階建てのビルが林立する、比較的中層な建物で構成されていた。しかし彼方には、五十階を越えそうな高層ビルと思しき建物がいくつも見える。すでに完成しているもの。クレーンが林立し、今まさに建設中と思われるもの。窓から見えるだけでも少なくとも十本以上だろうか。
私にとって観光的価値しか見出せなかった人類史上最初の世界帝国の古都は、実は意外なほどの躍動感と生活感に満ち溢れていたのだった。
それはさておき。
……あいつ、ほんとに寝てる間に、私に妙なことしてないだろうな。
◇
<同日 〇七時〇〇分>
「ほら、こなた。そっちじゃない。こっちだってば、こっち!」
「はうー、ね~む~い~」
一度は覚醒しかけたのものの、再び睡魔にそそのかされそうになっているこなたを、どうにかして食堂までつれてきた。しかしそれが限界だったようだ。
「すぴー、すぴー」
席に着くなり、こなたは再びあっちの世界に旅立ってしまった。
「もう、しょうがないなぁ」
軽くため息を吐く。あとで目覚めのコーヒーでも持ってきてやるか。
今回の旅行では、朝食は基本的にビュッフェ形式である。日本で言うところのバイキング方式のことだ。好きなものを好きなだけ食べられるわけだから、正直なところとても助かる。もっとも、食べ過ぎの恐怖とも戦わなければならないわけだが。
用意されている料理をざっと見回す。最初に多種多様なパンが目に付いた。大きさも形も実にさまざまだ。細いもの、まるっこいもの、握りこぶしより小さいもの、とてもひとりでは食べ切れそうにないほど巨大なものまである。すぐそばにナイフが置いてあるところを見ると、自分で切り分けるのだろうか。食欲を刺激する香ばしい香りがあたりに立ち込めていて、思わずごくりと唾を飲み込んでしまう。
とりあえずパンを三切れ。マーガリンとイチゴ、カシスのジャムをそれぞれチョイスした。それからおそらくはブタのモモ肉と思われるハム、いり卵、生野菜とオレンジを皿に盛り付けて、いったん自分の席に戻る。あいかわらず、こなたは夢の世界をさ迷っているようだった。しかたなく今度は飲み物の確保に向かう。私は紅茶。こなたにはコーヒーかな。
紅茶を入れようとカップとパックを手に取り、ふと給湯器の方に目をやると、一人の少女がその前に呆然と突っ立っていた。
とにかく色素の薄い少女だった。背は私より十センチほど低い。申し訳程度にセットしたボブカットのシルバーブロンド。どんな雲よりも白く滑らかな肌。ほっそりと伸びた手足。どこか精気に欠けた雰囲気。そしてヘルシンキ周辺で目撃した蒼い湖を連想させる、綺麗な眼。
昨日旅客機の中で、こなたが「まるでフィギュアだね」と評した、あの少女だった。
『私の助けが必要ですか?』
意を決した私は、どうやら途方にくれているらしい少女に英語で話しかけてみた。
『……?』
私の声に反応したらしく、いちおうこちらを振り返る。しかしその表情には何一つ変化が見られない。ただ瞳の中に、わずかな困惑の色が浮かんでいた。
うーん、どうやら英語はダメか。
彼女の手にしているのは、紅茶パックを無造作に放り込んだティーカップだった。ひょっとすると、給湯器の使い方がわからないのかも知れない。そう推測した私は、彼女に微笑みかけながら、自分のティーカップに紅茶パックを入れて、給湯器にセットした。
『お湯』
英語でそう話しかけながら、軽くスイッチを入れてお湯を注ぐ。わずかに湯気が立ち上り、それと共にほのかに紅茶の香りが立ち上ってくる。
『わかった?』
紅茶パックをゴミ箱に捨てて、入れたての紅茶を一口含んでみせる。ちょっと熱かったが、味はごく普通の紅茶そのものだった。
はたして、彼女の瞳にようやく理解の色が浮かんだ。見よう見まねでティーカップをセットして、お湯を注いでいく。
『スパスィーバ』
私の方に向き直った少女が、ささやくような小声で何事かをつぶやいた。
ええと、これはどこの言葉だっけ。どこかで聞いたような気もするんだけど。スペイン語だったかな? ……ま、いいか。とにかく問題は解決したんだし、ね。
ところが、である。
紅茶を入れ終えた少女が、今度は席の方を見回して、またもやおろおろとし始める。どうやら今度は、自分の席を見失ってしまったらしい。ひとしきり食堂を眺め回してから、救いを求めるように私の目をじっと見つめてくる。いや、そんな顔をされても困るんだが。
そうこうしているうちに、少女の目に涙が盛り上がってくる。うわ、まずい。このままじゃ泣いてしまう。でもいったいどうしたら……。
進退窮まった、まさにその時だった。
「ひっかる雲を突ぅき抜け Fly Away~!」
「ちょ……こ、こなた?」
いつの間に目を覚ましたのだろうか。突然、こなたが私の背後で例の絶叫調の歌を歌い出す。ええと、これは確か……「ドラゴンボール」の……主題歌?
「からだ、じゅうに ひーろがるパノラマぁ~」
少女も事の成り行きに驚いたのか、泣くのも忘れて目を見開いている。……ああ、なるほど。考えようによっては、かなり風変わりなショック療法と言えないこともない。
何人かのお客や、本来なら止める立場のウエイターさんも、突然開始されたこの阿鼻叫喚のリサイタルに呆然としている。まだ七時すぎで、食堂のお客が少なかったのは幸いだった。もしこれが人々でごった返している時だったら、間違いなくつまみ出されていただろうから。
パチパチパチ。
たっぷり五分ほどの地獄絵図が終了すると、さきほどまでの涙を拭くのも忘れ、少女は小さな拍手をこなたに送ってくれた。それまで気がつかなかったが、彼女の手の指は意外に細くて長かった。こういう構造の手の持ち主はピアノ向きなんだよね、確か。いや、無造作と呼びたくなる髪や黒を基調にした服装と比較して、きちんと指先がケアされているところを見ると、本当に何か楽器の類のたしなみがあるのかもしれない。
「どう、かがみ。オタク文化は日本の誇りでしょ?」
「はいはい」
息が上がりながらも得意満面という感じのこなたに、どう返事をしていいものか迷う。結果的に窮地を救われたとはいえ、その方法はなんとなく納得できない。
『XXX!』
その時なにやら外国語らしい叫び声が聞こえ、ひとりの女性が問題の少女のところに駆け寄ってきた。少女は新たに現われた女性に気づくや、その腕にひしっとかじりつく。どうやらこの極端に内向的な少女は、全面的にこの女性のことを頼りにしているようだ。
背は私と同じ……いや、わずかに高いかな。プラチナブロンドのロングヘアが目に眩しい。まるで血管が透けて見えるのではないか、と思われるほどの白い肌。白人にしてはやや彫りの浅い顔立ち。強靭な意志の存在を感じさせる凛とした眼差し。ぴしりと伸びた背筋が何かしら鍛錬の成果を匂わせる。灰色を基調とした地味なスーツ姿だが、女性らしいラインまでは隠し通せていない。一見して同世代とも思えるが、ひょっとしたら二十歳を越えているかも? まあ、白人の年齢は見かけではわからないものね。
『私の連れがお世話になりました。どうもありがとう』
『どういたしまして』
母音に強いアクセントのある英語で、女性が私たちに話しかけてきた。ああ、なんか妙に安心できるのは気のせいか。おそらくとっさに反応できたのはそのためだろう。もしネイティブばりの流暢な英語だったら、気後れしてしまったかもしれない。
『ところで、あなた方は中国の人? それとも韓国人?』
ああ、なんか昨日もあったな、このシチュ。などと思いながら、私は昨日の女子大生の人の返事を真似てみる。
『いいえ。私たちは全員日本人です』
すると。
「へえ。お姉さんたち、日本の人なんだ。日本人なら大歓迎だよ。ドラゴンボール、ナルト、ブリーチ、ガンダム、それからハルヒとか?」
「えらく偏った日本の知s……って、あなた、日本語わかるの?」
やばっ。あまりのショックに、思わず初対面の外人相手に日本語でツッコみそうになってしまう。しかし女性はその点は軽く流してくれた。
「日本語は独学で。この娘が日本のアニメが好きだから、いっしょに見てるうちになんとなく覚えた。もっとも話し相手があまりいないから、会話は苦手だけど。あー、ちゃんと通じてる?」
「いや、そりゃもう、完璧に」
やや警戒しながら私は答えた。ヤバイな。どうもこの人、こなたと同じ臭いがする。ひょっとして同類……か?
「あ、なんか疑ってるな。べ、別に私がアニメ好き、ってわけじゃないからねっ!」
そう言うと、女性はニヤリと人の悪そうな笑みを浮かべる。脱力感を覚えずにはいられない。やっぱりオタクだよ、こいつも。
「おお、なんというツンデレ」
予想通り、その台詞にこなたが反応した。
「ねえ君、きっとツインテール似合うよ。一度髪型代えてみない?」
「残念ながら私の髪の長さでは少々足りないと思う。あなたの連れの女性のようには行かないな」
「ん、それはしょうがない。なんせ、うちのかがみんは日本を代表するツンデレだから」
「勝手に日本代表にすんなっ。そもそも私は『ツンデレ』なんかじゃない!」
コンマ一秒で反応してしまってから、しまったと思うがもう遅い。
「こ、これが真のツンデレの威力なのかっ」
『オオ、ナントイウつんでれ……』
……外人二人組にまで感心されてしまった。なんだよこの空気。
「ま、それはさておき。私の名前は泉こなた。でもって、こっちは柊かがみ。それで、君の名前は?」
私ひとりを置いてきぼりにして、すっかり打ち解けた感じのこなたが会話を進めていく。へえ、意外に常識的な展開もできるんだ。
「私はエイラ」
あたかも、どんな願いもかなえる龍を呼び出す七つの球を手中に収めたかのような笑顔で、かの女性は答えてくれた。
「エイラ・イルマタル・ユーティライネン。よろしくな、ねーちゃん達」
(つづく)
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